■京料理

伝統と創造・京料理の真髄

「京料理」の誕生
京料理とは何か。「京菓子」はすでに元禄時代に登場するが、京料理という言葉は多分江戸時代には無く、明治時代には出来ていたと言われているが、よく見られるようになるのは大正時代以降である。ただ、言葉はともかく、京都には1200年を越える長い料理の伝統があり、それを継承しながら近代に相応しい料理を創造し、京都というブランドを冠することで、京料理を和の味わいの中心に押し上げたのである。

「京料理には大きな流れが4つあります。それは有職料理、精進料理、懐石料理、おばんざいです。これらがうまくミックスしたところに京料理があるのです」(「瓢亭」のご主人・高橋英一氏)

式正の料理は公家方の淵源をたずねれば大饗です。また武家方としては本膳料理です。この両者を一体として有職料理とよべる。これに加え、精進料理、懐石、そしておばんさいの四つの伝統の上に、近代の総合があり、外部からの新しい趣向を取り入れることで、京料理は確固たる地位を獲得したといえるのである。

京料理の特質
京料理ということよりも日本料理を大きく変えた料理の天才として、北大路魯山人と湯木貞一の両氏の名を逸することはできない。二人とも京料理から学ぶところが大きく、いわば、京料理を取り入れながら独自の綾里を創造した人物といってもよい。北大路魯山人は、京都で生まれて二十歳まで京都で過ごした。子供の時からご飯の炊き方や豆腐の味にうるさかったと言うほど、味覚に自信はあったようだが、その頃は生活の余裕もなく、京料理の真髄にふれる機会はなかったと思われる。
魯山人が各地を遍歴して再び京都に戻った28歳から33歳頃までは、京都に有力な支持者があって京料理に親しみ、後に美食倶楽部をつくり、星岡茶寮をもって、天下の美食家を集めるような綾里を展開する素地が形成された。毒舌家の魯山人だが、京料理には一目おいていて、次のように批評している(『魯山人芸術論集』)。

京都は、昔から料理はもっともよく発達していた。ここには長く天皇の皇居があった。しかも、四周山々に 囲まれて、綾里の材料とすべき海産の新鮮な魚がなかった。ここに与えられた材料は、豆腐、湯葉、ぜ んまいなどであった。この一見まずい材料をもってして貴族、名門の口を潤すべき綾里を考案しなけれ ばならなかった。こうした材料、こうした土地柄が、立派な料理の花を咲かせたのは理の当然といえよう。
また、昆布だしについても、東京にはない京都の特有の伝統でもあると述べている。魯山人はもともとが京都の人だったため、京料理が身体でわかっていた面があるだろうが、その創作した料理は京料理とはずいぶん違うものとなり、そのために東京や鎌倉などでその本領を発揮したといわれている。しかし、どこか京都を故郷と思う気持ちが生涯なくならなかったのも事実であろう。

湯木貞一氏は神戸の人で、大阪で店を持ち、既に30代で注目された料理人である。湯木氏は外から京料理を見て、その良さを讃えている。辻静雄氏との対談の中から幾つか言葉を拾ってみる(『吉兆料理花伝』)。

湯木: 一昔前、大阪はお刺身を作っても、京料理のきめの細かさはありませんでした。ぶつ切りの鯛の刺身をお客さんに食べさせていた。南地にきくのやさんという店がありまして、そこの腰かけ料理が当って、お客さんに大変喜ばれて盛んだったんです。その頃の大阪料理いいましたら、鯛の活きのいいところを分厚くつくって味わわせたものです。それに対して、京都はきめが細かくて、若狭甘鯛を糸づくりで勝負させた。大阪の人は糸づくりなんてしんきくさいと言ってやらなかったものですね。大阪はざんぐり、京都は粋に盛りました。粋とざんぐりの違いです。大阪では料亭へ行かなくても美味しいお刺身が腰かけ屋で食べられました。そういう店を最初につくったのがきくのやさんでしょう。当然、料理を支えたお客さんの違いもありましたでしょうね。
辻: すると、大阪と京都の料理の考え方の一番大きな違いは何ですか?
湯木: 茶の湯と精進でしょうね。次にあまごとかゴリ(魚ヘンに休)とか川魚を料理に取り入れたことも大阪よりは一歩進んでいました。盛り付けにも一日の長がありました。

かえって、京都人でないだけによく京料理の特質をまとめている。和の味とは、素材や調理はもちろん、それを盛る器や卓、食べる場のしつらい、季節、景色、さらに、給仕する人の物腰や言葉などが総合されたところに生まれるものである。その和の味を最もいかす料理として、さらなる創造が京料理1200年の伝統の上に生まれ、日本文化を輝かしてくれることを期待して止まない。