■和

茶の湯

和が最も強調しているのは、儒教の徳目、即ち調和である。茶の湯では、人間交流のあらゆる面で、心のこもった作法をするようにというが、その理由は、何よりもこの和という状態を尊ぶからである。初めて茶の湯を見た人は、それが厳格で制限の多い形式ばった作法にこだわっていることに気づくだろう。しかし、若い人が好むように形式をかんそにしたとしても、それでも自由になれるとは限らない。

社会生活のルールが厳格に制定されているおかげで、私たちは利己心や怒りといった衝動を抑え、目の前の状況や考えや感情に左右されずに人と接することができる。多分、人間の暦しんおなかで、今ほど儀礼というものを蔑ろにしている時代は他にないと思うが、茶の湯の世界においては、その儀礼を通して、私たちは自分の力で、厳粛で孤独になれる至福の世界を、私たちの人生で最も大切なものを慈しむ時間と環境を生み出せる。茶の湯の作法は厳密なしきたりがあり、いつお辞儀をするか、そのお辞儀の角度はどれくらいにするか、あるいはいつ会話をしたら良いか、そしてその話題は何が相応しいか、ということまで決められているが、その作法を守ることにより、私たちは精神を磨き、どのような状況に陥っても冷静に行動できるように、自らを鍛えているのである。

「真の貴族とは、何も心配することがない人のことである」(無事是貴人)とは、禅僧・臨済(-866年)の言葉である。茶の湯を学ぶものはこの言葉を大事にする。というのも、「心配事がない」(無事とは文字の上では「何もすることがない」とか「安全である」という意味)ということは、人の望む理想像であるからだ。であるから、俗世間を支配するのは、貴族や社会の指導者であるにも関わらず、茶室の中にその世界を確立することができるのは、自己の中に独自の世界を形成できる茶人であるという皮肉なことが起こるのである。このように、和は精神の民主主義を示唆する。
こうした和という茶の本質は、茶会という場の中に存在するだけではなく、自然と調和する私たちの生活の行動にも関係している。現代の生活では、簡単に便利なものが手に入るので、日々の生活で大自然に目を向けなくても構わないが、茶の湯の中心にあるものは、自分を取り巻く環境との複雑で繊細な心の通い合いである。季節の移り変わりそのものが茶の湯の要素の一つであり、それは特に、道具の取り合わせや食べ物の選択から点前手続に至るまで、それを表現するということに顕著に現れている。

また、茶の湯を実践するということは、一人の人間としてここに在るという、難しく大切な基本的な生き方を後回しにはしていないのである。お茶というものは様々なこと、例えば季節ごとに策花、石の上に落ちる水の音、夕方から夕暮れに変わる瞬間といったものに心を向けながら生活するということである。それらのものを通して、私たちは自己を成長させ、自己を超越した調和を生活に取り込むことができるのだ。