■敬

茶の湯

個人的レベルでは、知の理念は尊敬と謙遜の精神を意味している。社会においては、生活を支配している我執を捨て去ることができない限り、真に他人を理解することなどできない。実際、他人の深奥にある人間性を理解しそこなうと、それがこの世の争いの最大の原因の一つになる。

茶の湯のあらゆる場面で敬意と尊敬の精神を必要としているのは明らかである。また、茶の湯のなかには、稽古を積むことによって私たちが自分を取り巻く世界に目を向けるようになるものがたくさん含まれている。例えば、茶の湯では、物を見ることは、社会の習慣や価値と言った歪んだレンズを取り払い、物事の本質に気づいて認識することである。茶の湯が大事にしている道具の多くが、「芸術品」として生み出されたのではなく、最もありきたりな生活道具の中で見出され、取り入れられたということを理解することは重要である。屡、茶の湯で価値あるとされている道具は、形式美の理念に対して評価されるものではない。月並みな言い方をすれば、美はそれを見る人の目の中にあるのであって、茶の湯において、この目は尊敬の精神を通して養われる。

人間関係という観点から見れば、尊敬というこの理念は、他人に対して何かを企てないということであり、計算して相手を感動させたり、相手と競争しないということである。利休は次のように教えている。

客と亭主の互いの気持ちがおのずと調和するのがよい。気持ちを合わせようとしてはいけない。客と亭主の双方が茶の湯に精通していれば、おのずと心が合致し、心地よいものである(叶うはよし 叶いたがるは悪しし)

純粋な調和というものは、茶会に招かれた人々が自分で意識的に努力したからといって生まれるものではなく、彼らがそのような意思を捨てることで生まれるものである。つまり、長い間の実践と修行によって習得した無欲さや、互いに尊敬しあう心があって初めて、調和というものが実現できるのだ。
茶の湯において敬の精神を最もよく表している表現の一つに、「今この茶会は障害でただ一度のものである」(一期一会)というのがある。この言葉は茶会に集まった人々の態度はどうあるべきかを示しており、利休の師である紹鴎の考えに由来するものである。すなわち、

庭の小道に入った瞬間から、そこを去るときまで、この茶会は障害ただ一度のものであると心に銘記して、亭主に対して最大の敬意を払わなくてはならない。

このひととき、寸時を大切にするという態度は、茶の湯の修行を通して養うものだが、それは人と人との出会いの全てに通じる大切なものである。茶の湯の弟子が師から教えを受けるとき、あるいは私たちが同僚や友人、家族に会うとき、今という時の重要性を理解していれば、自ずと真心が現れる。茶の湯は、人に対してだけではなく、自分を取り巻く環境に対しても真心を求める。

40年前にアメリカで茶についてデモンストレーションをした千宗室は、「日本人でさえ理解するのが難しいものを、日本人でない人々はどうやって理解しようとしているのか?」という質問に対し、「松の木は松の木である。たとえどのような土地に植えようと、水と空気と場所と肥料さえ与えれば、育って花をつける。同じように、人も肉体的、精神的な栄養が必要だ。そして茶の湯はその栄養を与える手助けができるのだ」と答えている。