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きょうの味 やんちゃなヤンキー、中学2年で転機

京都吉兆嵐山本店=右京区=の調理場。その一番奥に、古い子供用の学習机がある。机上には数冊の字典と毛筆、墨汁。総料理長徳岡邦夫(46)は時折座り、筆を執る。

京都吉兆では、コース料理の献立を事前に客に見せない。「何が出てくるかっていうワクワク感も料理の楽しみのでしょ」と徳岡は言う。「食べた料理の詳細を知りたい」という客には、後日、料理と使った器の一覧を記した徳岡自筆の献立表を送る。

その日も徳岡は献立表を書いていた。書棚の奥から古い字典を取り出した時、小さな短冊状のメモ書きが2枚、はらりと落ちた。「なんやこれ?」。拾い上げて声を上げる。「あ、これ僕の字。昔の献立や」。日付は昭和52(1977)年2月13日。当時、徳岡は16歳。波乱の青春時代だった。

回想:30年前の自分が書いた献立表を見ながら、徳岡は過去に思いをはせる

回想:30年前の自分が書いた献立表を見ながら、徳岡は過去に思いをはせる

波乱の青春時代が原点

徳岡が生まれたのは、1960年5月の大阪。父は大津市坂本の老舗蕎麦屋、「鶴喜そば」当主の長男、上延多万喜。母は吉兆創業者、湯木貞一の二女、準子。上延は慶応義塾大を卒業し、湯木が「将来、吉兆の経営を任せたい」と見込んだ人材だった。しかし62年に夭折してしまう。

その後、準子は東京店などの調理場を任されていた徳岡孝二(現・東京吉兆社長)と所帯を持つ。「僕の苗字は中学卒業までは上延で、両親は徳岡やったけど、全く気にならんかった。普通に仲のいい家族でしたね」

当時、嵐山の店には、馴染み客がリクエストした時だけ、大阪・高麗橋の本店から料理を運んでいた。それを「吉兆嵯峨店」として開店するに当たり、湯木は右腕の徳岡夫妻に店を任せた。だから物心ついた後の徳岡の記憶は、祖父と両親の仕事場だった嵐山の調理場が主な舞台になる。

「料理場の若い板前さんと竹で筏作って、店の前の川に浮かべたら、沈没してね。えらい騒ぎ」「仲居さんとか隠れんぼした時は、調理場の隅のミカン箱の中に隠れて寝てしもて、行方不明ってまた大騒ぎ」。大笑いしながら、やんちゃな少年時代の思い出話があふれて出てくる。

ノートルダム学院小学校を卒業後、慶応義塾中等部を受験するが「勉強せずに遊びまわってたのに、受かるはずがないでしょ。試験中、ずーっと窓の外見てましたね」。地元、嵯峨中学に進学後は、丸刈りに眉毛なし、ケンカ上等の「ヤンキーバリバリ」。一方でサッカー部に所属、府内トップの強豪だった嵯峨中で1年生から活躍した。転機は中学2年の終わり。「今の学力では行ける高校がない」。担任の先生に言われて、生活が一変する。

「こんなん見ると、いろんなこと思い出すね」。30年前の自分が書いた献立の記録を見ながら、徳岡が語り始める。その話から、徳岡の半生とそれに重なる京都吉兆の歩みを振り返ってみたい。

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