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料理人になることに抵抗ミュージシャンを志す
―「吉兆」の創業者・湯木貞一氏の孫として生まれ、料理人になられたわけですが、抵抗のようなものはありましたか。
 まず、なんでこんなに値段の高い料理ばかり出しているのかということが不思議でならなかった(笑)。自分だったらもっと安い値段にして庶民のために料理を出すのにと、子どもの頃は感じていました。そして、自分が料理人になるなんて思ってもいませんでした。
 将来については完全にフラットな状態で、自分の可能性についていろいろと模索していましたね。小学校に上がる前は、家の前を川が流れていたので船頭さんになりたいと思っていました。小学生になると大工さん、中学生の時はプロのサッカー選手を夢見ました。高校生になって、ミュージシャンになりたいと思い、本気で取り組んだりもしました。思い込んだら一途にやるタイプなので、夢中になってやってましたね。
 
禅寺で自分を見つめ直す料理人という原点に回帰
―それがまたどうして料理人になることになったのでしょうか。
 高校を卒業する時に、将来についてどうするか親から聞かれ、ミュージシャンになりたいと言ったんです。しかし、親は「ミュージシャンなんて仕事じゃない。将来どうなるかわからない」という考えで、猛反対されました。「だったら料理屋だって水商売と言われて、どうなるかわからない仕事じゃないか」と思いましたが(笑)。
 当然、私は反発しました。双方が感情的になり、収拾がつかなくなってしまったので、第三者を交えて考え直すということになりました。相談に行ったのは、昔からお世話になっている妙心寺の盛永宗興老師でした。老師は答えを出さずに、私にしばらく禅寺で過ごすように言いました。私も老師を説得するつもりで寺預かりの身になりましたが、薪を割りながら涙が止まらなかったり、早朝の座禅で軽いトランス状態を経験したりするうちに、こんなことを考えるようになりました。
 自分がごり押しすることで、たくさんの人に迷惑をかけている。それって幸せなことなのだろうか。みんなが幸せになるためには、跡を継ぐのが一番いいのではないか。けど、自分が犠牲になるのも何か違う。どうせなら、世界に通用する料理人を目指すべきだ―。
 そう思い立って、世界に通用する料理人とは何かを考えました。もちろん、当時の私にわかるはずもありません。ただ、世界に通用した料理人が誰かは知っていました。それが、吉兆の創業者であり、私の祖父である湯木貞一でした。
 
―原点に戻られたわけですね。
祖父のそばにいて料理を学ぶことを条件に、私は吉兆に入ることにしました。大阪の高麗橋吉兆で修業を始めることになるわけですが、若い時分ですから、人社した時の熱い気持ちもいつしか冷めてしまい、ずる休みをしてディスコで遊んだりということもするようになります(笑)。彼女もできて、大阪の西成で同棲をするようにもなりました。
ただ、技術的な鍛錬だけは怠りませんでした。湯木貞一の孫だからとバカにされながらも、たとえば鱧を下ろすのは一番うまいと言われるように、技術的なところは突き詰めてやるようにしていたつもりです。
修業をしている内に、次第に独立するという気持ちが膨らんできました。同棲していた女性と結婚して、屋台の割烹を開きたいと考えたんです。早速、吉兆をやめて独立したいと言ったところ、親族会議が開かれました(笑)。「お前にはまだ技術が足りないし、素行も悪い」と言われ、東京吉兆に修業に出されることになります。同棲していた女性とも遠距離恋愛となり、いつしか関係も切れてしまいましたが……。
東京でも修業をしたり、祖父のお付きとしてパーティに出席したりしていました。あるパーティでは、中曽根総理(当時)にもお会いしました。「君が湯木さんの孫か。君は、日本が今、世界に発信すべきものが何かわかるかい?」と聞かれたので「わかりません」と答えると、総理は「それは日本の文化だ。君はそのど真ん中で働いているんだから頑張れ」と言われたんです。私はゾクゾクしました。自分のために総理大臣が真剣にアドバイスしてくれているわけですから。
 

雑誌名:宝島 3月号 93~95ページ / 刊行元:宝島社

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