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バブル崩壊後時代の変化を肌で感じて
―昨年も「ミシュランガイド京都・大阪・神戸2011」で3つ星を取られましたね。
徳岡 一昨年、ミシュランの星をいただいたことで、「京都吉兆」が、そして私自身が日本だけでなく海外ではより以上、注目される存在になり驚かされました。ミシュランの3つ星は世界にわずか90店ですから、料理人として大きな責任と使命を感じています。
 ミシュランにもいろいろな批判がありますが、それでも100年以上続いてきたわけで、それって世の中に必要とされている証じゃないですか。「京都吉兆」は一度倒産の危機に陥ったからこそ、継続していることのすごさが分かります。そのミシュランから高い評価をいただいたことは素直に喜んでいます。
―京都吉兆さんが倒産の危機にあったとは初めて知りました。
徳岡 1990年のバブル崩壊後、世の中がガラッと変わったような感覚を受けました。お客様が潮が引くように激減しまして、その時、「ああ、世の中に必要のないものは淘汰されるんだな」と思ったんです。料亭文化、ひいては吉兆という存在も例外ではないと肌身で感じました。
 たまたま乗ったタクシーの運転手さんが「お客さん、京都吉兆って潰れたらしいよ」と言うほどの落ち込みぶりでしたから、一時は違う道に進むことも考えました。しかし私は創業者・湯木貞一の孫で、晩年は一番近くにいたこともありました。吉兆がなくなるのは、湯木の情熱の炎がなくなるということ。その炎は消したくない。そして一緒にやってきた仲間のためにもなくなってしまうことが嫌だったんですね。
 しかし、その頃やっと調理場のことが分かってきた途中という段階で、マネジメントのことは何も分かりませんでした。だからやることなすこと失敗ばかりです。
―例えばどのような失敗を?
徳岡 当時、いろいろな業界で「ディスクローズ(公表)」が流行っていました。おそらく一般的には、料亭はベールに包まれていて、訳の分からないところ。悪い政治家がテーブルの下でお金を渡しているみたいな(笑)。
 だからきちんとうちのやっていることを伝えようと。それってイコール営業活動じゃないかと考えて、ヘッドハンティングで営業マンを連れてきました。でも、普通の会社と料理屋とでは文化が違うし、その人も何を伝えていいか理解していないから結果が出ない。それでやる気をなくして辞めてしまいました。
 今度は他社とのタイアップを考えました。例えば生命保険に入ったりクレジットカードをつくったら吉兆に行ける、とか。そういう企画をいくつか考えたのですが、クリアできない部分があってあまり形にはなりませんでした。
 結局、思うようにいかないし、結果は出ないし、しかも周囲からは「遊んでないで仕事しろ」と理解してもらえない。バブル崩壊後の数年はそんな日々でした。
 
社運をかけたウルトラC
徳岡 でも、その失敗の中で一つ分かったことがあったんです。「俺って何にもできないんだな」ということです。最初は落ち込みましたが、「そうか、自分が何もできないんだったら、優秀な人材を採用すればいいんじゃないか」と思いました。そこで求人活動を始めたのです。
―それまで求人はどのようにされていたのですか?
徳岡 基本的には縁故です。当時、接客スタッフは「ご主人をなくされた方がいい」とされていたので、例えばご近所などでいい方がいたら来てもらっていました。しかし、そういう方々は年齢も重ねているから、自分のやり方や考え方を変えるのが難しいんですね。
 しかも、その頃は派閥みたいなものがあって、この人の下についたらこのやり方、こっちの人の下はこうと、仕事の手順が違うんですよ。大事なのはお客様に喜んでいただくサービスをすることなのに、先輩の顔色を窺うことが仕事になってしまっていたんです。
 後に共通のマニュアルをつくって、毎日ミーティングを行って意思の疎通を図るような体制にしましたが、当時はそういう状態だったんですね。
―そこで新しい優秀な人材を得るために、求人をしようと。
徳岡 そう。若くて頭がまっさらなほうがいいと思って、新卒採用をしようと考えたのです。
 ところが、「人が大切なんだ」と役員を説得して与えられた予算が5万円。「え、5万円で何かできるの?」って(笑)。求人誌の営業の方に予算5万円と言ったら、広告枠は1センチ×5センチだと。文字を数行載せるので精一杯で人の目に留まるはずもない。
 でも、僕はこの求人に社運をかけていました。頭をひねりにひねって、ウルトラCの技を使ったんです。
―ウルトラCというと?
徳岡 わざと原稿の提出を遅らせたんですね。当然、掲載されずに製本されるわけですが、「5万円とはいえ契約は契約なんだから、入れてもらわなければ困る。別紙に印刷して挟み込んでもらいたい」と言ったんです。「そんなことできるわけがない」と一蹴されましたが、ここからは熱意の世界ですよ。「成功したら、うちを成功事例としてどんどん利用してもらって構わない。これで吉兆が復活できたら、日本中の料理屋をあなたに紹介します」と説得しました。
 結局根負けする形で「1回だけですからね」と無理を聞いていただきました。その後、この求人広告の会社とは長いお付き合いを続けさせていただきました。
 そうしてこの広告で3名の新卒社員の採用に成功、これが社員教育と従業員の意識改革の第一歩となりました。
―そういう取り組みが評価され、1995年に総料理長に就任されました。
徳岡 いや、実はそうではなくて、当時の料理長が引き抜きに合い、下の人10人くらい引き連れて出ていったのです。このまま沈みかかった船に乗っていてもしょうがないと思ったんでしょう。調理場に残ったのは僕以外全員20代でしたから、料理の腕が優れているからとか、創業者の孫だからとか、まったく関係なくお鉢が回ってきたのです。
 ただ、よく「立場が人をつくる」といいますが、これは本当だなと思いますね。お客様が来ないのは料理が悪いからだと、うまくいかないことはすべて僕の責任ですよ。つらかったし、苦しかった。だけど経営全体のことを考えられるようになったのも料理長になってからだし、料理の腕自体も上がったと感じています。人って逃げ場がなくなると、自分でも想像できないほどの力を発揮するんですね。

雑誌名:致知 2月号 40~43ページ / 刊行元:致知出版社

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