京都吉兆とは
世界や未来の人々に必要とされる
「日本文化の創造」を使命とし
“記憶に残る料理と時間(とき)”
を供する
吉兆は、昭和5年(1930年)に大阪の新町で小さな日本料理店を開業して以来、創業者・湯木貞一の言葉「世界の名物 日本料理」を信条に、料理一筋に心を尽くしてきました。
平成3年(1991年)の分社化後、京都吉兆は、嵐山に本店をおき、“伝統を引き継ぎながらも、美しく革新的な日本料理の世界を、より多くのお客様にお楽しみいただきたい” との想いで展開。現在は4店舗の日本料理店と、2店舗の物販直営店を構えております。
また「日本料理を通じて 世界や未来の人々に必要とされる日本文化の創造」を使命と考え、店舗でのおもてなしだけでなく、幅広い食の提案も続けています。
記憶に残る料理と豊かな時間を、お楽しみくださいませ。
>> 京都吉兆の詳しい歴史はこちら
“吉兆” の名前の由来
「吉兆」という名前は、創業者・湯木貞一が大阪の新町にお店を開く際、当時、町絵師であった須磨対水先生に「日本中どこでも使える名前をつけてください」とお願いし、考えて頂きました。
大阪の浪速・今宮神社の十日戎の「吉兆笹」の売り子による“キッキョウ、キッキョウ”の呼び声にちなんでつけて頂きましたが、お客様が「きっちょう」とお呼びになり、自然に「吉兆(きっちょう)」と呼ぶようになりました。
また、ある時「吉の字が“士”の下に“口”では、武士は食わねど高楊枝、云うて食べ物屋には向かん。“土”の下に“口”なら野菜に通じるからええのんちゃうか」と言われ帰られた老人客がいらっしゃいました。後にこの方は俳人入江来布先生のお父様だとわかりましたが、この助言を受け“食材を育む大地”の意味を込め『吉兆』という字を使うようになりました。
歴代亭主のご紹介
創業者 湯木 貞一
-
吉兆の創業者・湯木貞一は、神戸市の料理屋「中現長」に長男として誕生。
学業の道に進みたいと切望しましたが、父の考えから15歳で家業に入り、厳格な父の監督のもと料理修行をはじめました。
24歳の時、松江藩主で茶人の松平不昧による『茶会記』に出会い、茶懐石の献立書に描かれた鮮やかな季節の料理に感激し、料理で身を立てることを決意。29歳の時、大阪新町に小さいながらも茶の湯を意識した設えの店「御鯛茶處 吉兆」を開き独立しました。
湯木貞一はその後、本格的に茶の湯を極め、開店から10年と経たないうちに「株式会社 吉兆」を設立。日々うつろいゆく季節を料理やしつらいに映しこみ、生涯をかけ、茶の湯に通ずる日本料理の真髄や季節感の極意に迫ることで「世界之名物 日本の料理」を創り成し、一男四女にも恵まれました。
料理人として初めて紫綬褒章を拝受、また、文化功労者として顕彰され、全国に広げた店を子の代へ引き継ぎ、各界から惜しまれつつこの世を去りました。
個人史
1901年 |
明治34年 |
神戸市の料理屋に生まれる |
1915年 |
大正4年 |
家業に入り料理技術を学びはじめる |
1925年 |
大正14年 |
茶会記と出会い、料理を一生極めることを決意 |
1930年 |
昭和5年 |
大阪新町に「御鯛茶處 吉兆」を出店 |
1939年 |
昭和14年 |
「株式会社 吉兆」を設立 |
1981年 |
昭和56年 |
日本料理界初の「紫綬勲章」を受賞 |
1988年 |
昭和63年 |
日本料理界初の文化功労者となる |
1997年 |
平成9年 |
逝去 |
二代目 徳岡 孝二
-
京都吉兆 二代目総料理長・徳岡孝二は、兵庫県の料理屋に誕生しました。
16歳で神戸の料理屋にて修行を始め、3年後、その店の3軒下に出店した「吉兆」と出会います。評判を聞き興味を持ちはじめ、21歳の時 知人の紹介で吉兆へ入社。数か月後には、吉兆に骨を埋めようと決意しました。
入社2年目の時、当時の内閣総理大臣が初来店され、漬物場だった徳岡孝二は、“お代わりをして頂きたい” と心を尽くしたところ、本当にお代わりをして頂けたそうです。その後 吉兆東京店などを周り、どの店も繁盛店にする偉業を成し遂げ、30歳の時には、湯木貞一の二女・準子と結婚。夫婦で吉兆嵐山店を取り仕切るようになりました。
徳岡孝二は、湯木貞一のアイデンティティを受け継ぎながらも、現在の京都吉兆の礎となる料理・趣向・アイディアを次々と生み出し、独自の世界を確立。また京都吉兆の店舗展開も次々に成功させました。
個人史
1936年 |
昭和11年 |
兵庫県の料理屋に生まれる |
1952年 |
昭和27年 |
神戸の料理屋に就職 |
1956年 |
昭和31年 |
「吉兆」へ入社 |
1961年 |
昭和36年 |
吉兆東京店に異動 |
1966年 |
昭和41年 |
結婚・吉兆嵐山店を取り仕切る 大堰川にて船の上で鮎やおつまみ等の料理提供を始める |
1988年 |
昭和63年 |
岐阜の白扇酒造と共に純米大吟醸「吉兆貞翁」を考案 |
1989年 |
平成元年 |
湯木貞一 米寿のお祝いに嵐山店内に茶室「酉庵」を造る |
1991年 |
平成3年 |
「株式会社京都吉兆」独立・社長就任 |
2005年 |
平成17年 |
京都迎賓館オープニング料理担当 |
2009年 |
平成21年 |
株式会社京都吉兆 会長就任 |
三代目 徳岡 邦夫
-
京都吉兆 三代目総料理長・徳岡邦夫は、創業者・湯木貞一の孫として大阪に生まれ、2歳の時、京都嵐山に移り住み始めました。
学生時代はバンド活動に夢中となり、プロのドラマーを目指すも、臨済宗 妙心寺派 龍安寺の塔頭・大珠院にて修行の末、20歳の時に料理の道へ進むことを決意。高麗橋吉兆、東京吉兆にて修行を重ね、26歳の時 理津子(現在の京都吉兆 女将)と結婚。35歳より京都吉兆 嵐山本店で総料理長として現場の指揮を任されるようになりました。
バブル崩壊後の厳しい時代の最中の世代交代にも関わらず、料理・サービス・採用・広報など 店舗運営に関わる様々な面から試行錯誤を重ね、先々代と先代が築き上げた京都吉兆を守りつつ、名古屋と北海道に新店舗を開店。また、2004年頃より海外イベントにも積極的に参加し始め、現在も複数の海外事業に関わっている他、国内では、地域活性化や第一次産業の現場における様々な課題解決に向けた取り組みにも携わっています。
より多くの人々に喜んで頂ける “日本料理” や “日本文化体験” を常に考えながら、時代に即したうえで、その一歩先を行く日本料理屋の在り方・個人としての関わり方を、今尚、追求し続けております。
個人史
1960年 |
昭和35年 |
湯木貞一の孫として誕生 |
1980年 |
昭和55年 |
高麗橋吉兆にて修業を始める |
1983年 |
昭和58年 |
吉兆東京店に異動 |
1987年 |
昭和62年 |
吉兆嵐山店に異動 |
1995年 |
平成7年 |
京都吉兆嵐山本店 総料理長就任 |
2004年 |
平成16年 |
イタリアにてスローフード協会主催・食の祭典「サローネ・デル・グスト」へ参加(2006年にも参加) |
2005年 |
平成17年 |
スペインにて「マドリッド・フュージョン」へ参加 |
2007年 |
平成19年 |
アメリカ・カリフォルニアにてCIAによる料理会議「THE RISE OF ASIA」へ参加(2008年にも参加) |
2008年 |
平成20年 |
NPO団体 ジェームス・ビアード財団より日本人初の「ジェームズ・ビアード・アワード」に選ばれる |
2008年 |
平成20年 |
北海道・洞爺湖で開催された首脳サミットG8にて社交晩餐会を担当 |
2009年 |
平成21年 |
株式会社京都吉兆 社長就任
|
2009年 |
平成21年 |
京丹後市専門委員(政策企画委員)就任 |
2009年 |
平成21年 |
『ミシュランガイド 京都・大阪』にて嵐山本店 三つ星・HANA吉兆 一つ星 評価(以降現在に至るまで12年連続同評価) |
2010年 |
平成22年 |
やまがた特命観光・つや姫大使 就任 |
2012年 |
平成24年 |
『ミシュランガイド北海道 特別版』にて洞爺湖店 二つ星 評価(2017年特別版でも同評価) |
2015年 |
平成27年 |
イタリア・ミラノ万博に参加
|
2015年 |
平成27年 |
国際連合食糧農業機関 (FAO) の依頼によりイタリアにて特別講演を行う |
2015年 |
平成27年 |
文化産業科学学会 名誉理事就任 |
2016年 |
平成28年 |
東京農業大学 客員教授就任 |
2019年 |
令和元年 |
『ミシュランガイド愛知・岐阜・三重 特別版』にて名古屋店 一つ星 評価 |
2019年 |
令和元年 |
農林水産省料理人顕彰制度「料理マスターズ」第4回シルバー賞受賞 |
>> 詳しい経歴・著書のご紹介はこちら