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特集日本文化創造プロジェクト嵐山本店 座敷「待幸亭」大改修
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総料理長 徳岡邦夫 コラムCOLUMN from executive chef Tokuoka Kunio

2006.04.11

洞山守初(とうざんしゆしょ)

禅僧、雲門禅師の弟子、洞山守初(とうざんしゆしょ910~990年)が、ある僧から、「仏とはどんなモノでしょうか?」と尋ねられた時に、「麻、三斤だよ」と答えたという話があります。

「仏=麻三斤」という事が現代では、通用する訳がありません。
麻三斤とは、その当時きわめて高価なモノです。しかし、重量的には軽いモノでしょう。

仏様をそういうモノにたとえるという事はどういう事でしょうか?
禅宗の世界では、そのような表現をするようですが・・・・・?

その禅語が、意味する事は何でしょうか?

禅宗の世界で、たとえ仏が麻三斤であるとしても、それが直ちに禅は凡神論であるとか、唯物論であるなどと言うことでは無い様に思います。

つまり、自然を霊的な存在とみて大きな木があれば、『そこへは神様が降りてこられる』という風に思ったり、山があれば『あの山の奥には我々の知らない優れた神々が住んでおられる』という風に思ったり、あらゆるところが全部神の世界であり、その神の世界の中に人間の生活がある、という、そういう凡神論的なものであるとか。

それに対して、物質が第一次的で、精神・意識は第二次的であり、物質としての世界は時間的にも空間的にも永遠で無限だとし、なんら神というようなものによって創造されたのでなく、それ自体で存在し、精神・意識といわれるものは物質にもとづいて成立すると説きたいのでもないのでしょう。

「仏の存在とはいったいどういう事を意味するのか?」と言うことをここで問われている様に思います。

無門はこれについて次のように謳ってます。
「来説是非者、便是是非者」(「あれはよくて是は悪い。あれはあれ、これはこれ」などと価値判断をするのは、とりもなおさず、その当人が相対的な価値しか持たない人間だからだ)つまり是非善悪をあれこれと説く人こそ、是非善悪の相対界に陥っている人ですよ、ということらしいです。

仏の存在など気にせず、無心で懸命に生きろ!!という事なのかな?

私が思うに、仏教徒にとって仏とは何かということは根本的に問題だと思います。

もともと何故仏教に関心を持ったか、仏教とは何を与えてくれるモノのか、仏って何?

根本的には、人間は弱く、その弱さに対応する為にこういう考え方が生まれ育まれたように思います。
それがたくさんの人々に対応できるよう求められ偶像を作り上げる事によって、たくさんの人々への対応が可能になり、その環境に適用した考え方に進化(変化、適用)して今日に至っているのではないでしょうか。

その根本にあるモノは、もともと何かに依存するのではなく、自分自身のすばらしさを信じて大事にする事、そのすばらしさをその環境の為に使う事によって、それはもっと輝く、ということだと思います。

他を否定するだけなら、そこからは負のエネルギーしか生まれないようにも思います。

否定するのではなく、共生する為に提案する事がプラスのエネルギーを生むのだと思います。
又、自由とか教育という概念を説明するのではなく、私自身が徐々に実行に移していきたいと思っています。

人の所為にして責任逃れしたって、それだけの事です。

自分自身を信じて、この環境の中で懸命に生き続けていたいと思います。

「麻三斤」という禅語が遠巻きに禅的に伝えたい事を言葉で表現するなら、「仏は貴方の周りにあるお手本になる存在でも有りますが、貴方自身ですよ。」ということになるのでしょうか。

「庭前の柏樹」と言う禅語であれ、「乾いた糞かき箆」という意味の禅語にも同じ思いが含まれているように思います。
あがめ奉る事をも切り捨てているようです。
「愛」や「恋」も同じような事が言えるかも知れません。

外に求めるモノではないのです。