「吉兆」創始者の湯木貞一は、明治三十四年(一九〇一)年、神戸の料理屋「中現長」の長男として生まれた。昭和五年に独立、「世界之名物日本料理」という言葉をうちたてたカリスマは、昭和五十四年、初の東京サミットで世界の要人たちを驚嘆させた。料理人として初の文化功労者となり、平成九年に死去。吉兆嵐山店の当主、徳岡邦夫氏は孫にあたる。
今湯木貞一の子供夫婦と孫十人が「吉兆」各店を継いでいる。私は十六歳で調理場に入った後に高校に進学。卒業時にミュージシャンになると宣言して、湯木の次女である母を泣かせ、吉兆叩上げ料理人の父に勘当された。禅寺に籠もり薪割りをするうち、「どうせなら世界一の料理人になりたい。湯木貞一の傍らに行きたい」という思いがこみ上げて、紆余曲折の末、吉兆で、祖父の姿を間近に見る日々が始まった。
当時、貞一翁は八十歳。調理場では、盛り付け台に座布団をしいて座り、高いところから全体をチェックする。現役の頃は自分にも社員にも厳しいひとだったと聞く。私が入社した頃は怒鳴りはしなかったが、居るだけで調理場全体が緊張する存在だった。料理の味をチェックして指示を出し、自分の前を運ばれていく皿を止めては、ほんの少し盛り付けにタッチするだけで、驚くほど料理が生き生きとする。
「美味しさ」には、幅がある。湯木の凄さは、その中にある一点を、一人ひとりの客のために、常にブレずに指し示せること。しばしば「料理は儚いもの」、桜が散るように、食べた瞬間に消えるものだからこそ、そこに狂おしいものが宿ると言っていた。
吉兆の精神は、二十五歳で松平不昧公の茶会記を呼んで以来、すべて茶道から学んだという。「茶の湯を知りなさい」と言い、私も若い頃から茶道家に入門した。祖父が茶会に出かけるときはお供をし、錚々たる茶人たちとの交わりを垣間見ているうちに、気づいたことがある。
実は、「吉兆」は戦前の昭和十四年に株式会社となっている。一介の料亭が、しかも昭和五年に開いたばかりの、間口一間二分五里の小さな店が、なぜ株式会社になったのか。祖父は料理の天才ではあったが、当時、株式の知識はない。関西の財界人の方々が徹底的にバックアップして、知恵も資金も情報も提供してくださったから可能だったことである。阪急グループの小林十三さん、アサヒビールの山本為三郎さん、日商岩井の高畑誠一さん、錚々たる方々が湯木貞一をかわいがってくださったと聞く。人との接点を大切にし信頼を得ていたのである。信用こそが「吉兆」のすべてと気づいた。
各界の方々との大切な「接点」のひとつがお茶事であった。戦前は特に、茶室は重要な社交の場だった。利休と秀吉の例を引くまでもなく、ひとたび茶室に入れば、大企業のオーナーと一料理人という肩書きは関係なく、人となりだけで勝負する。湯木貞一は全身で茶事にのめりこみ、そこで認められたのだと思う。
戦中も、吉兆は営業を続けることができた。現在の高麗橋と嵐山の建物は、戦後すぐ、ある骨董商の本宅と別荘を譲ってもらったものである。これも生き様と信頼のゆえだろう。
祖父は生涯、決まった自宅というものを持たなかった。二十代で独立してからは常に店に寝泊り。昭和三十六年に妻を亡くし、東京に進出してからは、大阪、京都、東京の五つの店を順に見てまわり夜になると店のなかの、仏間のある小さな座敷に布団を敷いて眠る。食事も、外にお招きいただくとき以外は、店の調理場や裏座敷で、馴染みの道具屋さん方と道具の話をしながらとっていた。 人生が「百パーセント吉兆」。プライベートのない人生だったと思う。
唯一の例外は歌舞伎で、いつも最前列の真ん中で見物していた。「歌舞伎は色彩感覚や人情が学べる」と言っていた。 先代の中村勘三郎丈や、武原はんさんを食事にお招きしていたのを覚えている。
祖父の身近について数年後、日曜の夜に突然「にゅうめんが食べたい。つくってみぃ」と言われた。まだ調理場では味付けをさせてもらえる段階になったので、夢中で出汁をとり素麺を茹でて、温かいにゅうめんを出した。ひと口すすって眼鏡ごしに私を見上げ、「うまいな」と言われた感激は、忘れられない。