86年夏、ナス畑での農薬散布中に強いめまいを起した。農薬の急性中毒症状だった。翌年、頭にネットを被り、防護マスクをつけた。また倒れた。祖父の代からの主治医は点滴をうちながら「お前の体に責任持てん。今後もこんなこと続けるなら、うちにこんというてくれ」と言った。
そらに翌年。農薬がこもらないように背丈の低いネギを作った。しかし「出来たネギを自分が食べられへん」。危険な野菜ではない。でも手をつけられなかった。「いっそ農薬をとめてみよか」」“闇”で手探りする試みが始まった。
翌夏、収入はゼロ。虫に食われ、病気に荒らされ、売れる野菜は皆無だった。「土がくたびれていたから」だと言う。微生物などの土壌の生物バランスが崩れ、農薬の助けなしには野菜が育つ環境ではなかった。
わずかに出来た野菜も、卸売市場には全く売れない。妻と2人、トラックや自転車を売り歩いたが「その日の飯代にも足りず」収入は3分の1に。「道楽ですわ」と笑い飛ばす一方、「きつかった」とも漏らす。苦闘は5年間続いた。
当初、畑一面に発生した病気が、次第にまばらになり、局所的になってきた。「土のバランスが改善したんでしょう。病気を自然と防ぐ治癒力が戻ってきた」。野菜問屋に継続してうれるようになり、市場の競りにも出した。でも値は農薬を使っていたころの半分にしかならない。見た目が美しくないからだ。「今やから言えるけど、おいしいもんは見た目も美しい。買い叩かれたころの野菜は、味もまだ未熟やったってこと」と言う。
赤字脱却に5年。まとまった収量を得るのに7、8年。継続的に市場に出せるようになった時は、10年が過ぎていた。そして00年の初夏、京都吉兆嵐山本店(右京区)の若い料理人が訪ねてきた。サンプルのキュウリを渡し、10日後に総料理長の徳岡邦夫(46)と会った。「ナスやキュウリやトマト、虫が食ったもんも見せた。それ見てぜひ取引したいって。はぁそうですかって感じ」。一方の徳岡。「無農薬栽培やってる人教えてって役所や農協を回ったけど全然いない。そういや太秦に変わった人がいるでって聞いて、たどり着いた」。農と食、それぞれに人生をかける2人の歩みが始めて交錯した。