京料理・懐石料理・日本料理の料亭「京都吉兆」トップページへ
京料理・懐石料理・日本料理の料亭「京都吉兆」の簡単ご予約 京料理・懐石料理・日本料理の料亭「京都吉兆」オンラインショップ
懐石料理の料亭「京都吉兆」へのお問い合わせ
京料理・懐石料理・日本料理の料亭「京都吉兆」トップページ 店舗紹介-嵐山店,花吉兆,京都リ−ガロイヤルホテル店,ホテルグランヴィア京都店,松花堂店- 料亭「京都吉兆」の今月の京料理・懐石料理 懐石料理におけるおもてなしと、茶時,魯山人,楽焼,バカラ等、器の文化 京料理・懐石料理・日本料理の料亭「京都吉兆」イベント 京料理・懐石料理・日本料理の料亭「京都吉兆」メディア紹介 京都嵐山の懐石料理の料亭「吉兆」徳岡邦夫のコラム
京料理・懐石料理・日本料理の料亭「京都吉兆」メディア紹介 新聞・雑誌等
2009年
2008年
2007年
2006年
2005年
2004年
2003年
2002年
2001年
2000年
1999年
京料理・懐石料理・日本料理の料亭「京都吉兆」メディア紹介 TV・ラジオ・他
TV・ラジオ・他
動画をご覧いただくためには
※動画をご覧いただくためには
Microsoft Media Player
が必要になります。
1  [ 前のページ | 次のページ ]
きょうの味 土の治癒力が野菜を病気から守ってくれる

長澤源一(53)の太秦の家には「差料(さしりょう)」と呼ばれる腰差しの小さな日本刀がある。室町後期のものだ。「辺りの小さい在所の庄屋やったんです。庄屋は帯刀が許されてましたから。長いことここで農業をやってますわ」。先祖代々受け継ぐ畑。それを継ぐ畑。それを維持できない危機があった。80年代末から10年余りを、長澤は「闇夜の時代」と言う。

情熱:10年余りの苦闘を語る長澤。その目には自分が作る野菜への自信がみなぎる

情熱:10年余りの苦闘を語る長澤。その目には自分が作る野菜への自信がみなぎる

86年夏、ナス畑での農薬散布中に強いめまいを起した。農薬の急性中毒症状だった。翌年、頭にネットを被り、防護マスクをつけた。また倒れた。祖父の代からの主治医は点滴をうちながら「お前の体に責任持てん。今後もこんなこと続けるなら、うちにこんというてくれ」と言った。

そらに翌年。農薬がこもらないように背丈の低いネギを作った。しかし「出来たネギを自分が食べられへん」。危険な野菜ではない。でも手をつけられなかった。「いっそ農薬をとめてみよか」」“闇”で手探りする試みが始まった。

翌夏、収入はゼロ。虫に食われ、病気に荒らされ、売れる野菜は皆無だった。「土がくたびれていたから」だと言う。微生物などの土壌の生物バランスが崩れ、農薬の助けなしには野菜が育つ環境ではなかった。

わずかに出来た野菜も、卸売市場には全く売れない。妻と2人、トラックや自転車を売り歩いたが「その日の飯代にも足りず」収入は3分の1に。「道楽ですわ」と笑い飛ばす一方、「きつかった」とも漏らす。苦闘は5年間続いた。

当初、畑一面に発生した病気が、次第にまばらになり、局所的になってきた。「土のバランスが改善したんでしょう。病気を自然と防ぐ治癒力が戻ってきた」。野菜問屋に継続してうれるようになり、市場の競りにも出した。でも値は農薬を使っていたころの半分にしかならない。見た目が美しくないからだ。「今やから言えるけど、おいしいもんは見た目も美しい。買い叩かれたころの野菜は、味もまだ未熟やったってこと」と言う。

赤字脱却に5年。まとまった収量を得るのに7、8年。継続的に市場に出せるようになった時は、10年が過ぎていた。そして00年の初夏、京都吉兆嵐山本店(右京区)の若い料理人が訪ねてきた。サンプルのキュウリを渡し、10日後に総料理長の徳岡邦夫(46)と会った。「ナスやキュウリやトマト、虫が食ったもんも見せた。それ見てぜひ取引したいって。はぁそうですかって感じ」。一方の徳岡。「無農薬栽培やってる人教えてって役所や農協を回ったけど全然いない。そういや太秦に変わった人がいるでって聞いて、たどり着いた」。農と食、それぞれに人生をかける2人の歩みが始めて交錯した。

1  [ 前のページ | 次のページ ]
Copyright © 2006 kyoto kitcho. All Rights Reserved.
京都スローフード協会 食コミュニティー 湯木美術館 コンプライアンス委員会 エチエ農産
個人情報保護 会社概要 リクルート English