徳岡が生まれたのは、1960年5月の大阪。父は大津市坂本の老舗蕎麦屋、「鶴喜そば」当主の長男、上延多万喜。母は吉兆創業者、湯木貞一の二女、準子。上延は慶応義塾大を卒業し、湯木が「将来、吉兆の経営を任せたい」と見込んだ人材だった。しかし62年に夭折してしまう。
その後、準子は東京店などの調理場を任されていた徳岡孝二(現・東京吉兆社長)と所帯を持つ。「僕の苗字は中学卒業までは上延で、両親は徳岡やったけど、全く気にならんかった。普通に仲のいい家族でしたね」
当時、嵐山の店には、馴染み客がリクエストした時だけ、大阪・高麗橋の本店から料理を運んでいた。それを「吉兆嵯峨店」として開店するに当たり、湯木は右腕の徳岡夫妻に店を任せた。だから物心ついた後の徳岡の記憶は、祖父と両親の仕事場だった嵐山の調理場が主な舞台になる。
「料理場の若い板前さんと竹で筏作って、店の前の川に浮かべたら、沈没してね。えらい騒ぎ」「仲居さんとか隠れんぼした時は、調理場の隅のミカン箱の中に隠れて寝てしもて、行方不明ってまた大騒ぎ」。大笑いしながら、やんちゃな少年時代の思い出話があふれて出てくる。
ノートルダム学院小学校を卒業後、慶応義塾中等部を受験するが「勉強せずに遊びまわってたのに、受かるはずがないでしょ。試験中、ずーっと窓の外見てましたね」。地元、嵯峨中学に進学後は、丸刈りに眉毛なし、ケンカ上等の「ヤンキーバリバリ」。一方でサッカー部に所属、府内トップの強豪だった嵯峨中で1年生から活躍した。転機は中学2年の終わり。「今の学力では行ける高校がない」。担任の先生に言われて、生活が一変する。
「こんなん見ると、いろんなこと思い出すね」。30年前の自分が書いた献立の記録を見ながら、徳岡が語り始める。その話から、徳岡の半生とそれに重なる京都吉兆の歩みを振り返ってみたい。