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きょうの味 「熱中すると納得するまでやめないです」

「やり出した集中するタイプなんですよ」。徳岡邦夫(46)=京都吉兆嵐山本店総料理長=が自己分析する。「熱中すると納得するまでやえないんです。スポーツ、勉強、遊び、何でも」。妹の杉井延子(39)=グランヴィア店女将=は兄をそう評する。

志学:「やんちゃ」だった中学生のころ、嵐山店の前で

志学:「やんちゃ」だった中学生のころ、嵐山店の前で =徳岡氏提供

進学塾、ビリっけつの奮起

中学時代、徳岡はまずサッカーに没頭した。京都市立嵯峨中は徳岡の2年上の先輩が全国大会に出場した強豪。そこで1年生からポジションを取った。京都パープルサンガの桂谷幸一・前監督は同い年。桂谷は京都最強と言われた京都商(現・京都学園)に進んだが、徳岡も3年生の時にはサッカー強豪3校からスカウトの声がかかった。「でも僕は3年の時にはサッカーどころじゃなかった」

担任教諭に「今の学力では高校に行けない」と言われ、母の準子に「勉強しなさい」と始めてプレッシャーをかけられた。当時、灘高から東大を経て吉兆に修行に来ていた変り種の料理人がいた。うどんすきの名店「美々卯」(大阪市)の現社長、薩摩和男(55)だ。 「最初は薩摩さんに勉強を見てもらったんですけど、薩摩さんもバカ息子の面倒見るために吉兆に来てるわけやないですからね。で、彼が通ってた塾を紹介してもらった」

その塾とは大阪の「伸学社」、通称「入江塾」。塾頭・入江伸(06年に死去)が開いたスパルタ教育の“超進学塾”だ。全国トップクラスの東大合格率を誇る灘高(当時の入学定員約50人)に毎年20〜30人送り込んでいた。

大好きなサッカーはやめた。学校にも中間、期末考査の時以外、ほとんど通わなくなった。そうして行った伸学社だが、最初に入った時は「中1のビリっけつクラス」

「小学校出たての1年生の中に、3年生で眉毛剃った僕が一人座ってるんですよ。他の子はびびりますよね。そやけどテストの結果が発表されると、なんやこいつアホやんけ、みたいに見られる。もうむちゃくちゃバカにされた冷たい視線。もう腹立って、腹立って。そいで僕、初めて勉強したんです」

夏休みに入ると塾に泊り込む。その初日、徳岡は「僕は夜の帝王になります!」と宣言した。「夜も寝んと勉強しますって意味」だったそうだ。そこで「集中し、結果を出す」素質が開花。常に平均点狙い、時には1ケタもあったテストの点が100点でそろうようになる。そして76年春、岡山県熊山町(現・赤磐市)に開校したばかりの岡山白陵高校に進学。入学前の春休みに行われたテストでは、トップ5の成績で入学式で表彰された。そこまでして入った学校を、徳岡は3ヵ月余りで辞めてしまう。

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