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きょうの味 やんなヤンキー、中学2年で転機

76年開校の岡山白陵高校(岡山県熊山町=現・赤磐市)は、生徒全員が大学進学を目指す進学校だ。当時の授業は1限75分。英語は英文購読、英文法、英作文のほかに、大量の文献を読む「原書購読」の時間があった。校史によると、同年4月10日の入学式に挑んだ1期生は3クラス104人。その中に徳岡邦夫(46)=京都吉兆嵐山本店総料理長=もいた。

厳しい学校だった。下宿に帰り、宿題、予習を終えると毎日午前1時、2時になる。しかし勉強以上に徳岡を苦しめたのは友人関係だった。小さなころからいつも友達に囲まれ、嵐山の山を駆け回り、サッカーにも打ち込んだ。塾通いの時も学校に行けば仲間がいた。ところが高校では「最初はクラスメートに仲間意識があったんやけど、そのうち彼らが競争相手に見えてきた」。

原書購読の授業には毎回、英単語のテストがある。担当の教師は、点が下がると生徒をひっぱたいて指導した。「80点以下は点数じゃないって言われて、5点下がるごとに1発はたかれる。入学直後は満点やったんですけどね。最後は11発連続やったかな」。叱られている自分を見つめる級友の視線を感じた時、心の中で叫んだ。「こんな生活嫌や!」

1学期の中間考査を終えたときには、「ノイローゼのようになって」退学。実家に戻り、厨房の手伝いを始めた。しかしもう一度高校に行きたいという思いが募る。翌々年、府立北嵯峨高校(右京区)に入学。そこで音楽に出会った。

回想:30年前の自分が書いた献立表を見ながら、徳岡は過去に思いをはせる

没頭:北嵯峨高校時代、「吉兆」の法被を着てドラムを叩く徳岡。
「自分の生きる道を見つけた」と思った=徳岡氏提供

「音楽で食べてく」18歳の決意

最初、同級生にバンドを組もうと誘われた時は躊躇した。「だって楽器できひんから。小さいころピアノ習ったけど、続かんかった」。友人は、ならボーカルをやれと言ってきた。「ボーカルなら女の子にもてるぞって、即座にOKしました」と笑う。

バンドの名前は「鹿王院」。右京区にある足利義満建立の寺院の名前。京福電鉄嵐山線に同名の駅もある。「響きがかっこええから。『ロック・オン・イン』って聞こえるでしょ」。その後、ドラムも叩き始める。客のいない昼間の嵐山の店で練習したこともある。「古いお客さまにその話をすると、今でも『お前か、ドラムの音の主は!』って言われますよ」と話す。

のめり込むほど力を発揮する―。その"才能≠ェここでも輝いた。楽譜も読めなかったのに、複数のバンドをかけ持ちし、大阪のラジオ局が開催したバンドコンテストで優勝もした。当時、流行していたフュージョン系のバンドから「プロでやらないか?」という声もいくつもかかった。「ミュージシャンになる、音楽で食べていく、って当然のように思ってました。今から思えば、狭い世界でしかものを考えてなかったんですけど」

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