「ほんまどうしようもなかったですね……」。徳岡邦夫(46)=京都吉兆嵐山本店総料理長=は基本的に元気≠ネ人だ。インタビュー中も身振り手振り、表情豊かに話す。その徳岡の顔が、自身が総料理長になったころの話をする時だけ曇る。
バブル経済の崩壊は、全国の料亭の経営を直撃した。日本を代表する料亭街、東京・赤坂でも、田中角栄が愛した「千代新」や、「川崎」「満ん賀ん」などの一流料亭が、パチンコ店やテナントビルに姿を変えた。87年に創業者、湯木貞一が日本料理界初の文化勲章を受け、料理界のトップランナーとなった吉兆も例外ではなかった。
店の中が殺伐としていた。「派閥争いが増え、若い料理人が頑張っても、手柄は一部の仲居さんのもの。料理人の情熱が失われていった」。調理場には徳岡の先輩が3人いた。いずれも徳岡の父で大将≠ニよばれる湯木の右腕、孝二(70)が鍛えた腕利きだ。3人は調理場が抱える問題を話し合うために、徳岡を呼んだ。1人が言う。
「あんた、何とかしてよ」
「僕に言われても、どうにもなりませんよ。大将に言うてください。」
「そんなこと言うても、あんた息子やろ?」
徳岡は言う。「当時の僕は中堅の1人。なのに仲間と思っていた人は、都合のいい時に僕を経営者扱いする。権限がないのに、いつの間にか責任だけ負わされていた」。仲間外れでノイローゼ状態。誰にも相談出来ず、悔し泣きに暮れた。
周囲はどう見ていたか。妻、律子(43)は「私にはどの料理人さんも親しくしてくれたので、確執めいたことは感じませんでした。でも料理人同士、難しいこともあったのかも」。職人肌の父、孝二の言葉はよりシビアだ。「邦夫は厳しかったって言うけど、あの程度で厳しいとは思いません。僕らの時代とは厳しさの基準が違うのかもしれん」。
料理の神様≠フ孫、20年以上料理場を率いた大将≠フ息子という立場。そこにかかる重圧は、身近な人にも見えない形で、徳岡1人を責めたのかもしれない。
95年、先輩の総料理長をはじめ、10人の料理人が他店に引き抜かれて去った。代わりに総料理長に就いた徳岡は、敬愛する湯木の料理を勉強し直し、店を建て直そうともがく。しかし売り上げは下がり続け、責任は徳岡の肩にのしかかってきた。
「お前がダメなんや」
経営会議で、調理場で、そんな声が聞こえてきた。追い打ちをかけるように、親友からこんな話を聞いた。「タクシーを乗ったら、運転手が『嵐山の吉兆は三代目になってつぶれたらしい』って言うてたぞ」。
どうしようもない窮地に立つと力を発揮する、徳岡らしさがここで出た。突破口は「湯木貞一からの脱却」。「僕は湯木貞一になりたかった。でも僕は湯木貞一じゃない。だったら自分らしくやるしかない」。今につながる京都吉兆の姿がこの時生まれた。