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大きなテーブルの脇に水道の蛇口と流し、ガスの元栓。中学校や高校の理科実験室そのものだ。テーブルというより、実験台と呼んだ方がしっくりくる。殺風景な台の上で金色の鈍い光を放つ釜が四つ、湯気を噴き出していた。「そろそろです」。京都吉兆嵐山本店の料理人、谷亮佑(28)が釜のふたを取ると、甘い香りが一気に広がった。
今年2月9日、亀岡市の京都学園大学。昨年1月に完成したばかりという建物の一室で、同大学保健室が企画した「健康講座」が開かれていた。参加者は約60人。誰でも自由に参加でき、大学の学生や教職員のほか、年配の女性グループ、スーツ姿の男性、農作業を終えて集まったらしき作業着姿の人もいる。
参加者の前に炊きたてのご飯をよそった黒い塗りの茶わんが2客ずつ運ばれてきた。一方の茶わんには京都吉兆嵐山本店で使っている「吉兆米」。新潟県、旧・中頸城(なかくびき)群産のコシヒカリだ。もう一方には地元・亀岡産の日本晴。片方にだけ、茶わんにピンクのシールが貼ってある。主催者が言う。「では皆さん食べ比べて下さい!」
徳岡邦夫(47)=京都吉兆嵐山本店総料理長=は、その様子を面白そうに見守っていた。「みんなどっち選ぶやろ?」。この日の徳岡は「健康講座」の講師。講座のテーマ「米」は徳岡の提案。「ご飯の食べ比べ」は、嵐山店で毎年行っている「米のブラインド・テスト」と同じ作業だ。新米のシーズン、その年に仕入れる米を決めるため、銘柄を隠して全社員で食べ比べをする。手間のかかるこの作業をやるために、徳岡は谷ら3人の料理人とコンロ、釜、米を大学に運び込んだ。
実際に食べ比べてみた。一方は明らかに甘味が強い。ご飯だけでこんなに複雑な味がするのか、と驚く。もう一方はそこまで明確な味がしない。甘味も薄い。が、それはそれで控えめでおいしい気もする。結果、7、8割の人が吉兆米を「おいしい」と答えた。
食べ比べの後、徳岡の講演が始まった。最初の話題は「吉兆流おいしいお米の炊き方」。家庭のアルミ鍋や土鍋で十分できる方法だが、手間はかかる。例えば米のでんぷんがおいしい糊状になるには、鍋の中の温度を95度以上に維持せねばならない。鍋のふたから湯気が出続けるように自分で火の調整が必要だ。電気炊飯器のようにスイッチ一つ、とはいかない。
「確かに手間はかかりますが、家族の大切な記念日とか、親戚が集まった日とか、ここぞって時にぜひやってみて下さい。おいしさが違います。食事は食べてもらう相手のために愛情を込めて作るもの。相手にその愛情を伝える技術として、こういう手間もいいものじゃないですか?」
徳岡は近年、積極的に店の外に出る。特に講演やパネルディスカッションなどに呼ばれて「話す」仕事が多い。相手は農業、漁業など一次産業従事者、行政の担当者、家庭の主婦、学生と多種多様。徳岡は言葉を通じて、どんなメッセージを社会に送ろうとしているのか。調理場を出たその姿を追ってみる。
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