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祖父・湯木貞一は昭和5年に『吉兆』を創業した。爾来、現在まで『吉兆』を続けられてきたのは、多少なりとも世の中に必要とされてきたからであろう。私が『嵐山吉兆』の料理長に就任した1995年はまさにバブル崩壊直後。危機的状況に直面した私はありとあらゆることを試みたが、なかなか結果を出すことができずにいた。最後に思い至ったのが、創業者・湯木貞一の思いを一から見つめ直すことだった。
湯木貞一は創業から9年後の昭和14年に『吉兆』を株式会社化している。日本が戦争に向かっていく混沌とした時代に、小さな日本料理店をなぜ株式会社にしたのか?どうしてそんなことが可能だったのか?
祖父は、茶の世界に傾倒していたのだという。当時の茶の世界といえば、政治家や財界人などの集うサロンのようなもの。国を動かす人々の社交の場に、よく一料理人が入れたものだが、一種のギブアンドテイクの関係が成立していたのだろう。

茶の世界を確立したのは千利休だが、茶事の相手は主に戦国武将たちだった。下克上の殺伐とした状況にあって、武将たちは何を一番に欲していただろうか。それは、腹をわって話せる人物との信頼関係ではなかっただろうか。その関係を構築するための環境として、茶道の様式が確立されたのではないかと思う。天下人となった秀吉にとってその相手が千利休であり、かくして利休は茶道の至高となった。以上は私が立てた仮説だが、こうした関係が戦前の財界人と湯木貞一の間にもあったように思う。
茶の世界を通じて、創業当時から錚々たる顔ぶれの財界人から情報や資金の援助を受けていた湯木貞一は、何を持ってそれに応えていたのだろうか。それは料理やもてなしを通じて、まさに命を懸けて相手に応えようとする気持ちのやりとりではなかっただろうか。それこそが茶の湯の精神の基本であり、日本文化の根源でもある。
『吉兆』が70年間続いてきた核心もそこにある。決して忘れてはならない、創業の思いである。
 
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