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五感に、そして心に伝わる料理を生み出す。「求められるがゆえに挑戦し、料理という表現で、結果を出している」
1930年、祖父の故・湯木貞一が大阪で吉兆を創業。戦後、48年に嵐山店を開店した。91年に分社し株式会社京都吉兆を設立。07年、船場吉兆の不祥事の影響で接待席の利用が激減する。しかし90年代のバルブ崩壊から再建した経験があり、「無力さを痛感したが、逆にチャンスだと思った。時代に則して変わればこそ、湯木貞一の心をつないでいける」
中学時代はサッカー漬けだった。突っ張って、目立つ存在だったことから暴走族に呼び出されたが、逃げずに信念を貫き単身で出向いたことも。高校は、進学校である岡山白陵高校に入学したが、一学期でやめてしまう。一時、吉兆の厨房に入るが、2年後には地元の高校に入学し、ロックバンドを組み、ドラムを担当した。「プロのミュージシャンになります」と両親に宣言したが、認められず、親族が信頼している老師に相談に行く。そのまま、雲水として2ヶ月間住み込んだ。
ある日まき割りをしていたときに涙があふれ出し、止まらなくなった。「周りにつらい思いをさせてまでやるのか。それならいっそ跡を継ぎ、皆が喜ぶ方がいい」。そう決意をしたとき、すでに意識していた。「世界一になりたい」。そのために祖父につき、料理の修業を積んだ。逃げ出すことも度々あったが、技術面での伸びは著しく、ひときわ目立つ存在になった。
95年、総料理長に就任。営業や人事面にも力を入れ、海外企業とも積極的に提携し、休む暇はない。いまや、世界が最も注目する料理人の一人だ。「吉兆の名がなくとも、一度信用をなくした吉兆の名でも、必要とされる料亭を目指す」趣味は、人との語らい。「失敗しても成功するまでやり続ければいい」。成功の秘策について熱弁を振るうその心が、京都から世界へと伝わり始める。
右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町58(075-881-1101)。2人の息子には、「自分の人生、好きに生きろ」と論している。『四季の食卓』(バジリコ)、『おいしい野菜の見分け方』(同、共著)が好評発売中。
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