京都には一言で料理屋といっても、いろいろな形態をとる店がある。紹介者なくしてその門、暖簾をくぐることもできない一見さんお断りの店。店やその当主の美意識を集積した部屋や庭を用意した料亭。料理人と相対し、その包丁の冴えが生むうまいものに出会える割烹。気の利いた酒の肴を用意した居酒屋や、京都の家庭の味にそっと触れることのできるおばんざいなど、数限りない。
その中において、料亭は最も京都が昔から伝え、大切にしてきた日本料理の粋を極める希少な存在である。時として京の自然や庭の造園美、箱となる館の造り、季節を写す軸や花といったしつらえ、手に触れる食器、それに盛られた幸福を呼ぶ料理。そのいずれが欠けても料亭という空間は成立しない。
それだけに、その店、宴、もてなしの趣向を客側が感じられなくては、その数時間を心から楽しんだことにならない。大きくとられた玄関口ひとつとっても、そこを正面切って入るには男気がいる。しかし、その門をくぐるときのなんとも言えぬ優越感、さらにそこから玄関に誘導されるアプローチにしても、それを知るものだけに優遇された心地よさがある。
手入れされた庭、数奇屋の館、茶室の造り。そこに一歩踏み入れば、また思いかけぬ意匠に出会える。京都の料亭を代表する「吉兆」にはそんな、粋で雅な客迎えのスタイルが、目を向ける先々にあるのだ。
たとえば、春夏秋冬の詩歌を思わせる、扇面の釘隠しや琴柱をデザインした襖の引き手。金箔を張った板に和紙を張り、銀で流水を描いた天井やいぶされた竹が美しい天井など、いずれも過去を引き継ぐ匠の技が生きたものである。そのひとつひとつを発見する楽しみ。それは料亭に足を運ぶ者だけが出会える悦びである。非日常感、特別意識、そしてそこに潜む感動を料亭は必ず約束してくれる。
こうして料亭の中を一巡していくと、料理にたどりつくまでに、さまざまな悦びともてなしのあることに気付く。そのための店のケアを考えれば、当然1回の料金は高額になる。さらに誰でも簡単に入れてしまうことを未然に防ぐ策、すなわち一見さんに対してのガードが高くなるのは致し方ないことなのだろう。 |