徳岡さんにとって、吉兆の創業者で日本料理を総合芸術にまで高めた祖父、湯木貞一さん(1901〜97)は、どんな存在でしたか?
徳岡邦夫 子供の時は、おじいちゃんという親しみより、別世界の人でした。親や親戚も敬語で接していて、天皇陛下じゃありませんが一族の象徴だと子供心に感じていました。四、五歳の時、改築前の嵐山店で、祖父にいわれてお客さまの前で寿司を握ったことがあるんです。余興だったんですね。後で一万円もお小遣いをもらって、すごく嬉しかったことを覚えています。
------- 料理の世界に入られてからは。
徳岡 二十代から三十代中頃までは、「ああいう料理人になりたい」と追いかけても追いつけない存在でした。今も、存在の大きさは変わりませんが、全く違う人間なので、私自身が湯木貞一にはなれないことに気付きました。そして、自分の中に自分なりの料理や吉兆の在り方を探していくしかないと考えるようになりました。
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------- 料理の道に入られる前は、プロミュージシャンを志して、家出なさったこともあったとか。
徳岡 湯木貞一には十人の孫がいて、そのほとんどが慶応義塾大学の出身です。私だけ、やんちゃで・・・・。実は親が頭を抱える不良少年でした。中学の時もまったく勉強をしないで、サッカーばかりやっていました。親が見兼ねて・・・・スパルタ教育で有名な大阪の入江塾に放り込まれました。何とか、岡山の白陵高校に入学したものの、あまりの厳しさに、下宿先からオートバイで家出しました(笑)。警察に保護され、両親が迎えにきて、結局、吉兆の調理場に入ることになったわけです。
------- ミュージシャンを志したのは、調理場に入ってからのことなんですか。
徳岡 二度目の高校生時代です(笑)。最初は、調理場の年上の先輩たちに、梅田のディスコに連れて行ってもらったりして楽しかったんですが、次第に、同じ世代の子と遊べないのが寂しくなったんです。それで、もう一度、京都の公立高校に行きました。その時、友達に誘われてバンドをはじめたんです。僕はボーカルを希望してたんですけど、「徳岡は金持ちやからドラム買うてもらえ」といわれて。もちろんすぐには買ってもらえませんでしたけれど・・・・。それからはドラムにのめり込んで、卒業後は、スタジオミュージシャンになろうと決心したんです。
------- ご両親はなんと。
徳岡 母親は泣いて、父親には殴られ、「勘当だ!」と怒鳴られましたね。覚悟していたので、出て行こうとしたら、引き止められて話し合いになりました。そこで、湯木翁も含め家族の皆が指南して頂いていた臨済宗妙心派副管長、故・盛永宗興老師に相談することにしたんです。老師は僕の話を聞いて、「しばらくここに居なさい」と一言。いきなり頭を坊主にされて修行僧にさせられました。禅寺では、夜中の三時に起きて、座禅を組み、日中は作務といって掃除や薪割りをします。何日かして、座禅を組んでいる時、僕にとって音楽は、母親を泣かせてまで押し切ってやることだろうかと思い至ったのです。それよりも、みんなが望むことをやり、喜ばれるほうが幸せじゃないか。よし、もう一度料理の世界でやってみようと。それが二十歳の時でした。 |