両親は、徳岡を親元の嵐山の店ではなく、大阪・高麗橋の本店に出した。そこで徳岡は、茶の湯にこそ「湯木貞一の湯木貞一たるゆえん」があると気付く。即座に湯木本人に「お茶を習いたい」と申し出た。大阪から京都の裏千家の重鎮、浜本宗俊(故人)の下に通い、茶の基本を学んだ。
83年、東京店に異動。87年まで、料理の修業をしながら、東京での湯木の"かばん持ち≠する。バブル景気前夜からそのピークに向かう時代。あちこりでパーティーが開かれ、政官財界、芸能・スポーツ界などの有名人と日常的に会った。20歳代の徳岡は常に末席だったが、果敢に上座のVIPたちに話しかけた。大抵「吉兆さんの三代目か」と話が通じる。顔見知りになると「どっちのワインがうまい?」と相談を受けたりもした。親しくなった大蔵省の次官と話した後は、様子を見ていた人たちが「顔つなぎをしてほしい」と徳岡の前に列をなした。
現在の徳岡が振り返る。「僕の人脈の基本は東京時代に出来たし、人脈を作る術もそこで学んだ。どうしたら場が楽しくなるか、どうすれば仲良くなれるか、をね」
そしてこんなことを言う。「吉兆という店も、徳岡邦夫という人間も、他人から必要とされなくなったら終わり。淘汰されてなくなってしまう。湯木貞一は多くの人に求められ、支えられたから、亡くなるまで70年も吉兆を第一線に維持出来た」
「人と出会い、人の役に立ち、社会に貢献してそのつながりの中で生きていく。僕はそうありたいし、京都吉兆もそうあるべきと思っている」