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 いずれにせよ、こうした嫌がらせに近い噂が流れるということは、吉兆の存在を快く思わず、足を引っ張ろうとしている業界人が数多くいるということだろう。
そう考えた徳岡はちょうどいい機会だと思うことにし、噂を否定するよりも、嵐山店の構造改革に乗り出した。
---吉兆を日本を代表する料理屋に育て上げた湯木貞一は、 一九0一年、神戸の日本料理屋に生まれた。二十九歳の時、大阪の新町に初めて「御鯛茶処吉兆」を出し、以後九十七年に亡くなるまで、一代で日本全国に十九店の吉兆を作った(現在は二十三店)。東京サミットでは各国の首脳を前に和食を供し、料理人としては初めて文化功労者となっている。
吉兆が成功した理由は、大きく分けると三つだろう。
ひとつは伝統的日本料理に新しい趣向を導入したこと。つねに新しい食材を探していた彼は戦前の頃からキャビアやフォアグラを日本料理にとり入れていた。
また、彼が作る「新日本料理」は季節感を強調し、ダイナミックで斬新な盛り付けをその特徴とした。夏の暑い時期には砕いた氷で小さなかまくらをつくり、そのなかに白身の魚の刺し身を入れたり、また冬の寒い日には小さな飛騨こんろに炭を入れ、その上で牛肉を焼いた。
ふたつめの特徴は、一流の文化人、特にジャーナリストとつき合ったこと。『暮らしの手帳』編集長の花森安治、料理研究家の辻静雄、写真家の入江泰吉といった人々はその代表であり、湯木はこうした人々の口を通して吉兆ブランドを確立していった。
そして、最後が価格戦略。彼は吉兆を作った頃から料理の値段を思い切って高くした。そうすることによって、吉兆は裕福な人々に注目される店となり、「成功した暁には吉兆で食事をしたい」人々が目指す目標となった。彼は、部下の板前たちにもつねに「高い値段をいただいている」とプレッシャーをかけることも忘れなかった。事実、部下が作ったお椀の出汁が納得いかなければ、座敷のお客さまに少々待っていただいても、改めて鰹節を削らせ、一から出汁を取らせた。
 ただし日本料理の本場、京都では、吉兆は只の新参者に過ぎない。だから、百年を数える料亭がいくつもある彼の地では、先に挙げたような噂が出てくる素地が確実にあったのである。
それはバブルが崩壊し、老齢の湯木が表に出なくなった頃から流布していった。
しかし、噂を退治するというのは難しい。血相を変えて否定すればするほど、「こいつは嘘をついている」と思われてしまう。
「噂が流れるということは、お客様から見て嵐山吉兆にも改善しなければならないことがあるということだと考えたんです」
彼の考えは、サービスと人的資源の改善だった。
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