今度は調理場に案内される。目の前に巨大なまな板が広がっていた。大げさに言うなら、畳一畳? 「このまな板、もう十年近く使ってますかね。これ一枚きりではありません。枚数を順番で使います」
数十年という単位に恐れ入る。 付き合いの長い大工さんがいて、ずっとメンテナンスしてもらってます。鉋で削ってもらうわけだから、これもそうですが、どんどん薄くなってくる。元はもっと大きかったんですよ。ほんとに小さくなったらまた別のところで使いようがありますし、そうしたら今度は新たにこの場所に合ったサイズに切り出してもらってます」
まな板を買ってくるのではなく、「切り出す」ところにまた一驚。 「あるところからいい銀杏の気が手に入ったので、吉兆さんのほうでどうですかという話がありまして。丸太の様な状態でお譲りいただき、そこから必要な分だけ切り出して使ってます」
ものの本には、まな板は檜がいいとか、銀杏がいいとか、色々書いてある。実際のところ、どれがいいのだろうか。 「うちはずっと銀杏の木を使ってます。特に比べて試したことがないのでよくわからないんですが、銀杏のもつ油分が水に対していいだとかなんだとかっていう話は、昔の職人さんからきいたことがありますが。自分かが使っていて思うのは、包丁との相性でしょうか。切りやすい。刃止まりがいいというか、適度に滑らないというか。できの悪いまな板は、刃を駄目にしますからね」
このあと、雪平鍋やすり鉢なども見せていただいた。 とりわけ、主にご飯を炊くための鍋(陶器)や釜には吉兆というか、徳岡さんの料理人としての真髄をかいま見た気がした。釜でお米を炊くとき、火加減、水加減ひとつで炊き上がりはまったく違ってくる。 素人にでもその加減の足並みがぴたりと揃えば、電子ジャーで炊いたお米とは比較にならないほど、おいしく炊き上がる。心なしかお米もたっているように見えるし。 「よくお米が立ってるなんていうでしょ。でも、僕が炊くごはんはもう少しお米に水分を残し、簡単にいえばアルデンテを理想の状態とします。米粒の外側は水分を含んでツルツル、プルプル状態でありながら、中は芯があるかないかという程度の腰が欲しい」
「立っている」状態よりも上をいく姿があるということのなのか。 「お米に関しては、湯木貞一はすごく厳しく言ってました。それで僕なりに考えたんです。たとえばこれは茶事における話ですが、釜からまず最初に召し上がるごはんは、アルデンテの状態で味わっていただく。すると二杯目の頃には、いわゆる普通の炊きあがりの状態になっている。そして最後はお焦げが好きな方に。ひとつの釜で三つの楽しみを…」
『吉兆 湯木貞一のゆめ』(湯木美術館編)のなかで、湯木氏が日頃から熱く語っていた「風流」には、二通りの意味があると書かれている。ひとつは「みやび」と相通ずる「風流」。これは我々にも馴染みがある。 そしてもうひとつの解釈は、風流を「ふうりゅう」と読む。<ひとがびっくりするような造作の面白さとか美しさを意味する中性の言葉である>とのことだ。 徳岡さん流のお米との対峙の仕方は、なんだか少し「ふうりゅう」な気がした。