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寛永の三筆の一人と称される松花堂昭乗は、近くの石清水八幡官滝本坊の住持だった。昭乗の隠居所ほ2畳と竈のある土間だけの簡素なつくり。風雅なこのわぴ住まいを文人がよく訪れた。 |
湯木は素朴な形を気に入り、季節の味を盛り込んで弁当を完成させた。これが昭和10年頃のことで、当時の毎日新聞が吉兆前菜」として記事にした。以降、松花堂弁当は吉兆の看板となり、全国の料理店に広がっていった。入れるものの配列には一応の決まりがある。十文字に仕切られた四つの空間のうち、右下にはご飯が入る。右上には向附け、つまり刺し身を入れる。左上が口取り、前菜。左下には炊き合わせ。そして温かいお椀がつく。
松花堂美術館のエントランスは近代的な建築デザインとなっているが、庭園には茶人、松花堂昭乗が隠棲していたような静かな風情が残っている。庭園のなかには茶室が3軒あり、休日には茶事が催されていることが多い。私は庭園を見学し、美術館を足早に鑑賞し終えた。そして、吉兆の店内に入ってみたら、大勢の客でいっぱいだった。72席はすべて埋まり「どうしても弁当が食べたい」という人たちが行列を作っている……。美術館のレストランでこれほど混んでいるところはパリのルーブル美術館とここくらいではないか。注文しているものはみんな同じだ。3500円という吉兆にしては控えめな値段の松花堂弁当である。
「半月形に仕切りを入れた半月弁当、正方形の角を落とした大徳寺弁当、そして幕の内弁当は和食の世界に昔からあったもの。しかし、松花堂弁当は湯木が工夫し、考案したものです」
語ってくれたのは嵐山の本店以下、京都で5軒を経営している京都吉兆の社長、徳岡孝二氏である。彼は昭和31年、21歳の時に大阪、高麗橋の吉兆本店に入店した。そして湯木に認められ、彼の次女と結婚し、ついには京都吉兆をまかされるようになった。経営者になった今でも毎日、調理場に立ち、目を光らせている。
「松花堂弁当には、絶対にこれを入れろ、という決まりはありません。お客さまに喜んでいただけるものを料理人が工夫して入れるのです。例えばお椀にしろ、普通は吸い物にしていますが、うんと寒い日には白味噌椀にして、体を温めてもらいます。ただし、いくら自由とはいっても、ギョーザやシューマイを入れたりはしません。あくまで湯木がこしらえた枠の範囲内で作るのです。
この店では近所の畑で採れた野菜を使ってます。それも採りたて、抜きたてのものを使うことにしています。ねぎでもカブでも、あるいはたけのこでも松茸でも、採りたての野菜の甘いことといったら……。松茸の傘があるでしょう。採りたてのものに限りますが、傘の下、一寸の甘さといったら、砂糖が入っているのではないかと疑うほどです。野菜の持つ甘みを味わっていただきたいのです。ああ、そうだ、八幡巻きをご存知ですか。ごぼうを鰻で巻いたものです。これは八幡の名物ですから、季節を間わす八幡巻きだけは入れるようにしています」
徳岡氏の話を聞いた後で、弁当を食べてみた。素朴な味のおかす、昔からの日本の味が詰まっている。私が注目したのはご飯だ。ご飯は蒸籠で蒸した熱々のものを持ってくる。考案した当時は型にはめたご飯を入れていたのだが、昭和30年頃、湯木が温かくして出す工夫をしたのだという。つまり、彼は松花堂弁当だけでなくホカ弁の元祖でもあるのだ。 |