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九十年代に入ると世はバブル経済が崩壊し、混沌とした世相の中、各地の料亭が経営難に見舞われていきました。『吉兆』とて例外ではありません。お客さんがどんどん減り、世の中にとって『吉兆』はほんとうに必要なのか、存在する意味はあるのか、と徳岡さんは自問自答しました。店の中も殺伐としはじめた頃、先輩の総料理長以下十人の料理人が、他店に引き抜かれるという出来事が起こりました。
急遽その後を継ぎ、三十五歳にして徳岡さんは総料理長に就きます。この世界に入った時から、尊敬する祖父、湯木貞一そのものになりたかったという徳岡さんは、今まさにそれを実現する時だという不退転の決意で、店を建て直そうと必死でもがきます。しかし売上は下がる一方で、その重圧ははかりしれないものに。とことん窮地に立った時、崖っぷちで徳岡さんは突破口を見出します。
「湯木貞一になりたいと思って必死にやってきたけれど、自分は湯木貞一ではない。だったら僕らしくやるほかないんや」と。その後、嵐山本店をあらゆる面で見直し、守るべきことは守りながらも、徳岡さんは果敢に改革を進めていきました。不明瞭だった料金設定を明確にし、食材から調味料にいたるまで産地や製法を徹底的に検証しました。農家に足を運び、完全な有機農法を行なう農家の人と知り合い、納得のいく無農薬野菜を仕入れることを可能にしました。そして改革は調理場にも及びます。レシピを完全に公開して、煮方や八寸場など重要な仕事をどんどん若い人材に任せ、誰もが学べる場所に変えていったのです。
「『盗んで覚えろ』が当たり前だった職人の世界ですから、職人肌の父親とは何度かぶつかりました。でもこのままでは吉兆は消えてしまうと説得したんです」
料理に対する考え方も大きく変化しました。料理人がおいしいと思う料理をそのまま出すのではなく、お客さんが感じるそれぞれのおいしさをつくる方向へと調理場全体が転換していきます。
「同じ素材であっても八十歳の方と二十歳の方ではおいしさの基準が違います。味付けや調理法、素材の切り方、全てが変わってくる。それをきちんとできることが吉兆の料理なんやと。湯木貞一の時代にもきっとしていたことなんです」自分の経験を通して、継ぐということは適応していくことだと徳岡さんは考えています。
「単に守ることではなく、単に変わることでもなく、時代のニーズやそれに伴って変わるお客さまの好みや希望に沿って、変えてゆくところは変える、その柔軟さをもって日々の仕事に臨むことが、継ぐということなんやと思っています」
一方で決して変わらぬもの、変えてはいけない存在もあります。それがこの貞一氏の言葉に、非常によく現れているそうです。
工夫して心くだくる思いには、花鳥風月、みな料理なり
「この『心くだくる』というのは、たとえばなにか落ちてパンッと割れるという程度のものではない。日本海の大きな岩に大きな波がぶつかって、波が飛沫をあげ砕け散るほどのものやと祖父に言われたことがあるんです。お客さまとの出会いはすべてが一期一会。そやから一生懸命、真面目に、心をこめて料理に取り組み、お客さまに喜んでいただくことに専念せなあかん。祖父が貫き続けた姿勢こそ、吉兆の変わらぬもの、絶対変えてはいけないものなんです」
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