松花堂弁当
    前のページ 1|2|345678910 次のページ
松花堂昭乗(1582〜1639)は石清水八幡宮の社僧。摂津の堺に生まれ、少年期に近衛信尹に仕え、17歳の時に石清水八幡宮(現京都府八幡市)の滝本坊実乗に師事、後に滝本坊の住持となります。晩年になって弟子(一説に甥)の乗淳に滝本坊を譲り、隣接する泉坊の一隅に方丈・松花堂を建てて隠居し、松花堂を号としました。書に秀でて寛永の三筆の一人(他は近衛信尹・本阿弥光悦)に数えられ、絵は狩野山楽に学び、和歌は近衛信尹や前久に学んだという、寛永文化(寛永年間を中心とする30年ほどの時期)を代表する文化人の一人でした。小堀遠州や江月宗玩、佐川田喜六、木下長嘯子・烏丸光広などの文化人と交友、また茶の湯を好み多くの名物茶器を所持、それらは「八幡名物」として知られます。

松花堂昭乗が活躍した寛永年間(1624〜43)頃には、慶長年間(1596〜1615)の初頭に日本に伝えられたとされる煙草が一般に広まり、茶の湯にも取り入れられて茶席で「煙草盆」が使われるようになっていました。丁度、千利休の孫の宗旦(1578〜1658)の時代にあたり、宗旦好みの煙草盆が各種えられます。同時代の小堀遠州や金森宗和の好みの煙草盆も伝来しています。松花堂昭乗の好みの煙草盆としては、『角川茶道大辞典』では「長方形の玉林院形」「種箱煙草盆」「長方形に格狭間透かし」の3種類があげられています。その中で種箱煙草盆の説明にある「側面が四つ間格状になっている」との記載が「側面」ではなく「内側」と考えますと、松花堂弁当の原形となった煙草盆にそうとうすると推測されます。

文献上では、少し時代が下がる延享3(1746)年5月7日の「瀧本坊茶会記」(資料1)に「瀧本好之 四角にして□折敷程有、中を十文字に仕切ヲ入・・」とあるのが最初です。松花堂の没後百年余りのことです。

さらに時代がずっと下がった大正4(1915)年12月24日、高橋義夫氏(箒庵/1861〜1937)の日記『萬象録』(全7巻)に「煙草盆 松花堂好松木地盆」の記載がみれます(資料2)。煙草盆は掛物や茶入・茶碗のように茶会に必ず記載されることはなく、省略される場合も多くあり、現在のところ管見ではありますが僅かな資料しかありません。しかし、江戸中期や近代において松花堂昭乗が好んだ松木地盆(名称は種箱や四つ切塗箱など様々ですが、この稿では松木地盆に統一して記載します)が、煙草盆として使われていたことは確実なことです。

そうした松木地盆を日本料理店「吉兆」の創始者である湯木貞一氏(1901〜1997/文化功労者)が手に入れたのは、吉兆の開業から3年ほどたった昭和8年頃のことでした。
     前のページ 1|2|345678910 次のページ
松花堂弁当閉じる
松花堂弁当について 松花堂弁当ものがたり