湯木氏が松花堂の遺跡(京都府八幡市。現在、史跡・松花堂庭園)を訪れた時に、部屋の隅に平らな四角い箱が重ねて置いてありました。湯木氏はそれに目を止め、何かの料理の器として使えないかと考えてその一つを預けて頂きたいと頼みました。その時にタバコ入れや薬入れ、絵の具箱として使うものだと教えられたということでした。
その同じ頃に官休庵木津宗泉宗匠が八幡市内の寺で茶会を開かれた折に、この松木地盆を盛って点心として出されたということも伝えられています。
松花堂の遺跡に積み重ねられていたり、茶会で点心の器に使われていたという事実は、その数が沢山あったことを示しています。江戸時代の確かな遺品が見られず、文献上の記録も少ない松木地盆が、昭和の初期の頃に八幡市内に沢山の数があったというのは、何故かと少し不思議な感じがします。
これは次のようなことが考えられます。
大正時代、篤志家によって松花堂昭乗の住いした方丈などが現在地に移されたのを機縁に、松花堂昭乗を顕賞する「松花堂会」が結成されました。次いで、益田考(鈍翁/1848〜1938)を中心とした数奇社や道具商の人達によって、記念の茶会が大正11(1922)年5月18日に、各地の貴顕を集めて松花堂好みの閑雲軒などで催されました。この茶会の折に松木地盆が新しく製作されたのではないかと推測ができ、その松木地盆やそれの複製が積み重ねられていたり、茶会で使われていたのではないかと考えられます。現在に伝えられる松木地盆は少しずつ寸法が違っていたり、墨絵が書いてあるの・ないもの、錺金具があるもの・ないものなどの変化がありますが、いずれも古い時代のものではなく比較的新しい時代に製作されたと考えられることも、この推測を裏付ける一つの要因です。(この松花堂会については資料が少なく、現在のところ全容が判っていません。今後、新たな資料が出てくる機会がありましたら、こういった点も明確になることと思われます。) |