本来、弁当というのは家を離れた時に食べる携行食であり、屋外労働の従事、旅行、行楽、戦争などの場合に用いられるものでした。「弁当」という言葉は安土桃山時代頃に登場したと言われます。携行食という需要品としての弁当に、楽しみの要素が加わったのは江戸時代中期頃のことで、各種の花見や芝居見物など季節の行事に飲食を楽しむことが加わりました。芝居見物の幕間に食べる「幕の内弁当」を初めとして、弁当箱や料理の詰め方にも工夫と趣向がほどこされて弁当文化が花開きました。この弁当文化の多彩さは日本独自のものと言われます(注:『江戸の料理と食生活』原田信男著)。
松花堂弁当はそうした弁当の歴史のなかでは特別なもので、いわゆる「携行食」ではなく、茶の湯の料理のために考案されたものでした。
松花堂弁当は小さな懐石とも言われますように、一つの器にすべての料理を盛り込むことが出来ます。しかし、そのコンパクトさが魅力というだけではありません。料理を盛りやすい程よい寸法であり、中に器を入れたことから分業が出来、作業効率が非常に良いということになりました。また、蓋をつけることによって乾燥と埃も防ぐことが出来、運ぶのにも都合がよくて、料理をする人には誠に便利で使い勝手のよい弁当箱になりました。それが茶の湯の場を離れても広く一般に用いられる要因となったのでしょう。昭和55年10月、東大寺大仏殿の昭和大修理の落慶法要の際には5日間、東大寺様が出される法餐(お弁当)を湯木氏の店が担当することになりました。特に最初の日は1.300個が必要とのことでした。湯木氏はそれに対応するのに松花堂弁当の器を発砲スチロールで作り、無事にその役割が果たせたのでした(写真5)。
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