松花堂弁当
    前のページ 12345|6|78910 次のページ
この焼印については、湯木氏の松木地盆の他に八幡市立松花堂美術館所蔵の松木地盆および、たばこと塩の博物館で所蔵されている松木地盆と比べますと、この三点の松木地盆は寸法や絵など少しずつ異なった点がありますが、いずれも松花堂の焼印はありません。また、文献上にも焼印の記載がなく、江戸時代の古い松木地盆の実物も現在のところ確認されて「おりません。従って、「松花堂」の焼印は他を真似たものではなく湯木氏の独創になるものであるのは確かなことです。この焼印によって江戸時代初期を代表する文化人の一人であった松花堂昭乗のイメージが浮かび、何かしら床しい感じを与える効果があるように思われます。こうして「松花堂弁当」の名称が生まれたのでした。

湯木氏が松花堂弁当の形を考えた丁度その頃は、茶の湯の在り方というものが大きく変化していた時代でもありました。

明治29(1896)年からの益田鈍翁による「大師会」、大正2(1913)年からの京都の「光悦会」が年を追って盛んとなり、特に昭和11(1936)年11月8日から5日感にわたって京都で催された「昭和北野大茶湯(北野大茶湯三百五十年記念)」の盛況もあって、次第に大寄せの茶会が広く行われるようになりました。同じ会場で一日で何十人、何百人という大勢の人達がお茶を楽しむようになったのです。そうした大寄せの茶会では従来茶室の中で供されていた料理が茶室と切り離され、別に設けられた部屋で料理を頂くようになりました。特に戦後になってからは、お茶と料理を別の空間にして大勢の方を一度にもてなす、という形がさらに一般化するようになりました。

湯木氏が松花堂弁当を製作したのは、こうした時代の風潮と無関係ではなかったと思われます。湯木氏は料理人であるとともに茶の湯に深く傾倒した数奇者でもありましたから、そうした茶の湯の変化の風潮に合った、扱いに便利な器を考案することは必然的であったといえるかも知れません。
    前のページ 12345|6|78910 次のページ
松花堂弁当閉じる
松花堂弁当について 松花堂弁当ものがたり