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祖父のそばで修行

徳岡:湯木貞一という日本料理の神様みたいな祖父がいたのです。祖父は厳格な人でしたので、おじいちゃんと言えど肉親という感じではなく、業界の偉い人というイメージでした。側にいることが自分にできる一番のことかなと思い、湯木貞一の側にいるという条件で両親に相談してくれないかということを老師にお願いしました。

東田:お坊さんにはその道を選ばせようという気持ちがおありだったのですか。

徳岡:それはわからないですね。僕自身も、息子に吉兆を継がせたいという気持ちもあるし、好きに自分の望むことをして欲しいという気持ちもあります。本気でやる気持ちもないのに、吉兆に入れてくすぶらせる、縛るということは彼の人生にとってすごくマイナスではないかと。

東田:吉兆を継ぐようになり、お祖父さまの傍らでご修行されたということですが、お祖父さま、お父さまから食に関して何か教えられたことはございますか。

徳岡:食に関してはないですね。これをこうしなさいなどは一切なかったです。僕は変わったことをするのが好きですが、変わったことをするのは駄目だと、最近父親はよく言います。
吉兆料理は単品でなくコースでだいたい十品くらい出すのですが、その十品で一つの料理を表現する。気持ちを伝えるということをするのですが、その料理、料理で役割があるのです。湯木貞一が、一草亭という華道家に、貴方の料理は「凝りすぎや」と、一生懸命な気持ちはわかるけれども、あまりにもやりすぎと、注意を受けたという話は聞いたことがあります。それが指導だったのかなという気がします。どれもこれも凝ったものにすると、やはりお客様に与える印象がそういう気持ちにさせるのかなと、今は思っています。一番初めに出す料理、お料理の導入部分、お笑いの言葉で言う「つかみ」ですが、「つかみ」が大事ということで、私自身は「もうこの季節になったのか」というのを一番始めに出そうと思っています。二番目の料理はこうだから、三番目じゃ四番目、五番目の料理がこうだと、そういうトータル的にどうなったということを考えられるようになったのは、湯木貞一の、いろいろな場面で言われたことの中からくみ取ったからだと思います。
東京店で修行していたとき、たまたま湯木貞一から、お腹がすいたからにゅうめんを作れと言われ、見よう見まねで作ったのです。やっとできて食べてもらっているときに、ずれていた眼鏡越しににらまれ、「うまい」と言われたのです。緊張して作って、最後にじろりと見られて、ああ、あかんのかなと思ったら、うまいと言われたのですごく嬉しかったのを覚えています。

東田:お祖父さまに認められたわけですね。

徳岡:存在を認められたということではなく、作ったことを認められたのがすごく嬉しかったですね。みんなが湯木貞一を目指していましたから。父もそうでしたが、東京、大阪、京都の店長は、私からいうとおじさんたちですが、それぞれ湯木貞一に今もなりたいのだと思います。湯木貞一に憧れて、尊敬していたのだとすごく感じますね。

原点に立ち返ることが必要

東田:先生自身もそう思われましたか。

徳岡:僕も一時思っていましたが、バブルが崩壊して、しばらくしてハッと気がついたのは、俺は湯木貞一ではない、湯元貞一の時代背景でもない、環境でもない、徳岡邦夫自信が思うこと、今の時代に合うこと、目の前にいる人のために料理を作ることにしようと。

東田:独自のものをだしていこうというふうに思われたのですか。

徳岡:そうでないと吉兆自身がつぶれると思ったのです。料亭という文化、存在がつぶれると思ったのです。必要とされないものはいらないわけですから。
1990年、バブルが崩壊したときに3年くらい悩みに悩んで違う仕事につくことも考えました。その中で考えたのは、1930年創業の吉兆が1990年、還暦の60を迎えたけれど、60年間も続いたのは何でやろと。人間が生きていくためには吉兆が必要なんやろうと。吉兆にも皆に必要とされる部分があるのではないかと、少しずつ思い始めたのです。そのときに、自分自身が湯元貞一に憧れている存在では駄目なのだなと。今の時代の目の前にいる方に喜んでもらうものにしなければいけないのだと思いました。
お茶の世界でも作法がありますが、作法を守るというのではなく、作法はどうしてできてきたのかと、原点に立ち返るということが必要だと思います。あるから守るのではなく、それは、人と人との関係を大切に思うがゆえにできたもので、人と人との関係を大切にするということが第一義です。AさんとBさんに伝える方法というのは違うはずですよね。Aさんにこのことを伝えたい、Bさんにこのことを伝えたいというとき、Aさんに伝わるような方法で伝えないと、やはりAさんに伝わらない。それを形どおりのことをやっていてAさん伝わらないのは当たり前の話ですよね。Aさんのために何をしたらよいか、真剣に考えることがないとと伝わらない。いろいろなことを確かめて、これでは伝わらなかったからこのような工夫してと、いろいろ工夫してAさんに伝える気持ちがまず大事です。

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