―徳岡さんが吉兆を継ぐ決心をされたのはいつごろのことですか。
徳岡:二十歳のころですね。子供のころは継ぎたくなかったです。むしろ高級料亭に不条理を感じ、社会の敵みたいにさえ思っていました。
―それはなぜ。
徳岡:いろいろ紆余曲折しまして、中学を卒業するまではサッカーを一生懸命やっていたんです。中三から猛勉強して入った私立の新学校を中退して普通の公立高校に編入。やがてミュージシャンになりたいと思うようになり、両親に告げたら、「そんなやくざな商売はだめだ」と猛反対。その時、ふと思い出したのが、小学校のときに訪ねていた臨済宗妙心寺派の老師で、いろいろ話をしたところ、「しばらく雲水としてここにいなさい」と言われ、頭を剃られて、僧衣を着て、風呂場の当番となりました。
寺のお風呂はスイッチを入れればいいというわけじゃなくて、水は汲むところから、薪は集めるところからしなくちゃいけない。寒い季節の夜明けに座禅を組みトランス状態になるような経験をする中でふと思ったのは、「なぜ僕は、人の嫌がるころをやろうとしているのか」ということ。ミュージシャンは皆に反対され、つらい思いをしてまですることなんだろうか。それよりは皆が賛成すること、喜んでくれることをした方がいい。皆が喜ぶことは、吉兆を継ぐこと。そしてどうせ継ぐなら世界一の料理人になりたい。それには世界に通用する湯木貞一の近くに居ることが近道だと、大阪・高麗橋の湯木貞一のそばに居させてもらうことを条件にしたんです。
―どんな収穫がありましたか。
徳岡:湯木貞一の孫ということで、大変な方たちと二十代で直接話ができたのはすごい経験だと思います。中曽根さんには「これから日本が世界に輸出するのは文化だ。君はその文化のど真ん中にいるのだから、しっかりやりなさい」と言われ、榊原英資さんには二十代のころからかわいがっていただいています。皆さん、酔っ払ったらタダのオヤジだなあと思いましたが、それでも何ともいえない魅力がある。「ああ、俺もがんばらなくちゃ」と思える魅力なんです。言葉だけじゃなくて本当に公のために尽くしていることを感じ、「本当にでかい人たちだな」という憧れが、自分を変えていったのかもしれないですね。
―二月には本も出されました。
徳岡:料理を作るってどういうことだと思いますか。エネルギーを得るためにエサを作っているわけじゃないんですよね。エネルギーをとって寝ているだけじゃ人は生きていけない。明日も頑張ろうっていう意欲を育むのが食であり、食卓、団欒というものだと思います。そのために作る人は食べてもらう人のことを思って作る必要があるし、食べる人は作った人の気持ちをかんじて食べる必要があると思うんです。
理想論だけ言っても仕方がないですから、普段の生活の中で継続可能な方法を考えなくちゃいけない。せめて何かの記念日だけはちゃんとしたものを作ろう、きちんとしたものを食べようという意識が大事だと思うし、食の話をできるような家族、仲間を作ることも必要だと思う。そのために役立つ本を思ってつくりました。
例えば夫は仕事、妻は家のことということで何となく対等であった関係が、定年後はそのギブ・アンド・テイクが成り立たなくなる。そうならないために、ご主人も料理の知識があるということが、定年退職後、すごく大事なことなんです。
―ありがとうございました。