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石黒:実は、私は男子厨房に入らずの組でして、食べる一方なんです。それでも、私が湯木貞一さんの名を知ったきっかけは、佐竹本三十六歌仙絵巻の中の第四番でしたか、「在原業平」を湯木さんが持っていたからです。大阪の湯木美術館で軸装された現物を見せていただきましたが、その時に展示されていた、茶道具のすごさに圧倒されたことを覚えています。
徳岡:しかし、湯木貞一はどうも常人ではないようですよ。彼が初めて自分の店「吉兆」を構えたのは昭和5年のことですが、出店の資金は当時で3千円という大金だったそうです。そして翌年、さらに3千円かけて高価な食器群を購入しています。膨大な出店資金に匹敵する金額で、まだ成功するかどうかもわからない料亭で高価な食器を揃えるなど、常人ではちょっと考えられない。かの魯山人が吉兆にやって来てこの器を見て「これは使うものではなく飾っておくものだ」と注意したという逸話もあります。
石黒:それを棚に飾ったりせずに、ごく日常の食器として使うところが、鷹揚さというか、よく言えば器の大きさですか。
徳岡:1600年頃に作られた小染付など、すでに400年ほど経っているにもかかわらず、ブルーの色鮮やかな発色など今でも新鮮な感動を覚えます。凄い眼力だと思いますし、これらの食器を私も使わせてもらっているので文句は言えませんが、普通の人でなかったことは確かです。
石黒:開店した日はお客さまが無かったそうですね。
徳岡:何しろ料理のことしか考えられない人ですので、出店するにあたって宣伝するなど思いもよらなかったようです。しかしいくら待ってもお客がこないので、なるほど告知しなければ世間の人は知るはずがないということを学んだようです。また昭和5年の出店から9年後には吉兆を株式会社化していますが、これも驚きです。料理しか知らない人間が昭和14年にどうして株式会社なの?というのが正直なところです。
石黒:その頃は、株式会社という言葉すら一般的ではない時代です。
徳岡:私の推測では、経済人との交流が深まったからだと思います。表千家に茶の湯を本格的に学ぶことができたのも同じ理由ではないでしょうか。当時は一介の料理人に過ぎなかった湯木貞一が、世界にその名を知られる表千家に入門するなど、どう考えても意欲だけでは無理です。強いコネクションがあったに違いありません。当時の関西を代表する経済人との交流を深める中で、茶の湯を学び、株式会社の何たるかを理解したのでしょう。
石黒:吉兆は関西の料亭として東京への進出も早かったですね。
徳岡:東京オリンピックを3年後に控えた昭和36年にはすでに経済の中心も東京に移っていましたので、これからは東京だということを人との交わりの中で感じたのだと思います。そして東京なら銀座だという判断も、経済界のトップの人々との交流なくしてはあり得ないように思います。
石黒:お茶を飲むということは、コミュニケーションそのものであることを、しっかりと見抜いておられたのでしょう。
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