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意識の高い人間を集め教育することで、サービスの質を向上させる。これは料亭の世界では異端の発想だ。いまだに『大卒なんて理屈っぽくてダメ」という反応が圧倒的だし、吉兆グループでも大卒採用は京都だけの方針。

「昔からのお客様には『こんな若いので大丈夫か』という不安があったかもしれません。でも、お叱りを受けるどころか、逆にお誉めいただいた。結果が出てるからだと思います。社長(徳岡の父・孝二)も認識を変えた一人で、大卒採用を始めたときの予算は5万円でしたが、『自分が吉兆を変える』なんて元気のいい若者を目の当たりにして予算はすごく上がった」

徳岡が革新を決意したのは'90年代前半。バブル崩壊後の数年間は、地獄のような日々だったという。田中角栄が愛した赤坂の有名料亭が次々と姿を消し、ニュースになった時期だ。吉兆とて例外ではない。嵐山本店の客は急激に減った。「料亭はもう必要とされてないんじゃないか?」と、存在価値すら疑った。従業員のモラルは下がり、揉め事が続いた。

「サービスも無茶苦茶でした。仲居のなかに派閥があり、それぞれに仕事のやり方が違う。せっかく若い子が入っても、誰につくかによってやることが変わる。お客様のために最低限、これを共通の仕事にしましょうと決めても、年配の人は変えられないんですね。かといって僕一人じゃ何もできない。いま一番必要なのは『人』なんだと痛感しましたね」

板場も荒れていた。下っ端の料理人は「奴隷並み」の扱い。いい仕事をしても、上の人間や仲居が自分の手柄にしてしまう。逆に問題が起きると、責任を押し付けられる。彼らがやる気を出す職場作りが急務だと感じた。

よく日本料理で一人前になるには10年かかるという。煮方や焼き方などの分業制があり、すべての持ち場を一巡するのに時間がかかるからだ。徳岡はなるべく早く全体像がつかめるよう、ローテーションを料理人に自主管理させるようにした。嵐山本店の料理人は13人。最年長で34歳。ほとんど20代という若さだ。

「料理って、技の部分は繰り返しやれば、誰でもできるんです。それより大切なのは、臨機応変にお客様に合わせる柔軟性。作り直せなんて言われると、昔の職人だと腐っちゃう。若ければそういう部分が少ないし、何より体力がある。準備してきたものをすべて捨てて一から出直しとなっても、まだ体力が残っているのが、若い料理人のいいところなんです」



徳岡邦夫(とくおかくにお)
'60年生まれ。「吉兆」創業者・湯木貞一の孫にあたる。
15歳の時に修行を始め、'95年より「京都嵐山吉兆本店」総料理長として現場を指揮。
日本を代表する料理人として海外にも活躍の場を広げる。
「吉兆とは関係ない人達にも必要とされる存在価値を築くために奔走しています」(徳岡氏)
 
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