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そんな巨大な存在である祖父を持った徳岡も料理人となったのだが、決して順調に歩んできたわけではない。

1960年、徳岡は大阪に生まれた。彼の父は滋賀県坂本の老舗そば屋「鶴喜」の後継ぎで、湯木の次女と結婚した。しかし、徳岡がわずか2歳の時に父は病死。残された母は高麗橋の本店に手伝いに出て徳岡を育てた。彼が6歳になった時、母が再婚する。相手は本店の料理人であり、
湯木貞一が認めた男。たたき上げで無口だが、包丁は切れる男で、夫婦は京都、嵐山の店を任されることとなった。

「実の父のことはまったく記憶にありません。何しろ2歳でしたから。母が夜遅くまで働いていたので、6歳まではひとりで育ったようなものでした。嵐山に来てからのことはよく覚えていますよ。前の川で泳いだり、裏の山で猪に追いかけられたり。今と違って当時の嵐山は田舎でしたから。新しい父には遊園地に連れて行ってもらったり、遊んでもらったりしました。ただ、あの頃うちの両親は嵐山の店を流行らせることで必死だったんじゃないかな。大阪や東京と違って京都には老舗の日本料理屋が多いでしょう。中村棲さんなんて460年も前からやっていましたから。嵐山吉兆は新参者としてスタートしたんです」

京都郊外の嵐山でのほほんと育った徳岡は岡山のスパルタ進学高校に進む。しかし、あまりの管理教育についていけず、ノイローゼとなり、
下宿先からオートバイを無断借用して中国山地の山のなかに逃げ込むという劇的な家出を敢行した。しかし地元の人間に通報され、
彼は警察に保護される。慌てて駆けつけてきた父と母は徳岡を叱りつけたが、孫の失態は一族の王である湯木には内密にされた。
徳岡は高校に戻らず、嵐山に帰る。父からは勉強する気がないなら調理場に入れ、と言われ、その後、2年間、嵐山店の見習いとなった。

「調理場の見習いをやっているうちにまた高校に行きたくなって・・・。それで公立の高校に人より2年遅れて入り直したのですが、今度は音楽に狂いました。フュージョンバンドを結成して、ドラムを叩いていました。調理場では丸坊主で鍋ばかり磨いていたのが、突然、長髪のミュージシャン。卒業したらプロになりたいって言ったとたん、父から勘当だと激怒されました」

その時は大阪の祖父から指示があったようで、徳岡は再び丸坊主にされ、竜安寺に預けられた。祖父と懇意の竜安寺住職に二ヶ月間、
説論された結果、ミュージシャン志望の孫は翻意。料理人の道を進むことになった。しかも今度は祖父がいる高麗橋本店の調理場に入ることに
なった。

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