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「吉兆」創業。わずか10席からのスタート

その5年後に湯木は親元を離れ、29歳にして大阪市新町(現在の西区新町)に店をもつ。昭和5年11月21日、「吉兆」の創業である。店名は大阪の冬の風物詩、今宮戎神社の十日戎で配られる「吉兆笹」に由来する。十日戎は商売繁盛を願う、商人の町大阪を象徴しり祭り。笹飾りを売る売り子たちの「キッチョウ、キッチョウ」のかけ声からとって「、「御鯛茶處 吉兆」と名づけられた。開口一間少々、カウンターと小さなテーブル席を合わせて10人も入ればいっぱいになる小さな店だった。オープン初日は客が一人も来なかったそうだが、やがて店がしゃれているという評判が立ち、間もなく「吉兆」は繁盛店となる。小さな店でありがなら、高価な器を揃え、茶の湯を意識して調理場と客席の間に風炉を置いて客に茶をふるまったという。湯木自身もますます茶の湯にのめり込んでゆき、茶事を通して多くの通人と交流をもつようになり、湯木のセンスはさらに磨かれていく。

新町で7年間商売をつづけ、昭和12年にミナミの畳屋町に移った。畳屋町の店は開口3間、奥行きが30間もあり、新町の店とは比較にならないほどの広さだった。大阪大空襲で店が焼ける昭和20年3月13日までの8年間で、「吉兆」は大阪でも名のとおった料理屋に成長する。顧客であった府知事の計らいで、ほかの店が営業を禁止された戦時中も「吉兆」は商売を許可された。しかしそれがあだとなって、北大路魯山人や永樂善五郎、白井半七らの高価な器や掛け軸などが空襲で全部焼けてしまうことになった。

 
大阪の人気店から日本を代表する名店へ

「吉兆」が日本を代表する名店へ一気に駆け上るのは戦後のことである。
戦後、最初に店を構えたのは大阪市中央区平野町。現在の湯木美術館にある場所だ。昭和21年に平野町に店を開き、23年嵐山に「嵯峨吉兆」(現在の京都吉兆嵐山本店)を、24年には平野町の店を高麗橋に移した。旗艦店「高麗橋吉兆」の誕生である。嵐山も高麗橋も、湯木と親しかった古美術商の児島嘉助氏の持ち家で、氏の死後に息子さんら譲り受けたものだ。

ここから湯木貞一の絶頂期がはじまる。湯木の料理の評価はますます高まり、政財界の要人や文化人たちが通う店となる。配膳は仲居であったが、女性の接待などは行わない。最高の料理を芸術品のような器に盛り、華美を廃した数奇屋造の座敷で供する。床の間には選び抜かれた花瓶や香炉などに、優れた書や画の掛け軸がさりげなく飾られ、適度な距離を保った潔いサービスでもてなす。茶室で亭主が客人に一服の茶をふるまう、湯木はまさに茶の湯の精神を食事に置き換えたのだ。ここに「吉兆」という、料理を主軸とした総合芸術が完成した。

湯木貞一は生涯をとおして、先取の精神に富んだ料理人であった。いち早く西洋料理の素材を取り入れたり、バカラなど洋の器なども積極的に使っていた。自分のつくりあげた料理に固執せず、時代にあった、つねに新しい料理を模索しつづけ、1997年4月7日、95歳で世を去った。しかし、「吉兆」と湯木貞一の精神は5人の子どもたち、そして孫たち、弟子たちのなかに連綿と受け継がれている。

prost 男を上げる「和食」 2007年Vol.01

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