餡についても尋ねられたが、これまた答えられなかった。水屋で、箱の中に「結び文」が並んでいたのは目にしており、(あれ、「末富」に作りにいったときより進化してる。アンコが入ったのかな?食べてみたいな)と思ったが、つまみ食いは行儀の悪いことと、ぐっと我慢した。ああ、我慢するんじゃなかた(と、いまだにあの「結び文」には未練が残っている)。
冷や汗の果てに、最大の試練が待っていた。
薄茶点前である。これだけは、センセイの介添えなしに、責任を持って私がやらなくてはならない。だがしかし、最初のふすまの閉め方からして、ホラ、もう間違えている。
薄茶は和やかに歓談しながらいただくもの……であるはずなのに、亭主の私が緊張しているものだから、お軸の文字「億劫」についてのせっかくの松源院さまのご解説も、気もそぞろで、ちゃんと耳に入ってこない。
「もう、黙ってましょうか?」
と、またもやお正客に気を遣われ、申し訳ないことこの上ない。
お点前が済み、拝見も終わって、「失礼いたしました」と頭を下げ、パタリとふすまを閉めた。
すぐにまた開けて、松源院さま、ご連客のみなさまに、お礼とお詫びと反省を申し上げに飛んで行こうとして、ヨシオカに押しとどめられた。
「このパタリですべて終わりなんです。一期一会なんです。ね、素敵だと思いません?」
そうか、「一期一会の覚悟」とはこのことだったのかと、思う、なんて厳しい。何て切ない。だから、心残りがひとつもないようにと、亭主はよくよく準備を整え、余裕をもってお客様をお迎えしなければならないのだ。
その夜、スギモトがくれた、「亭主の心得」を開いてみた。今さらながらではあるが、今日を反省して、明日への糧としよう。
おや、だが、「茶事の終了」のしかたがヨシオカの作法とずいぶん違う。「薄茶が終わると茶道口は一旦閉められるが、再び亭主が躙り入ると、正客は扇子を前に一膝躙り出て、お礼の挨拶をする」とあるではないか。
心残りが二倍になった。ああ、松源院さま、あのときすがりついて申し上げたかったのです。有り難うございました。そして本当に申し訳ありませんって。私は結局、最初から最後まで、ヨシオカに翻弄され通しでした!
※一段目右から/ドウダンツツジを入れた花入。/松源院の老師は、懐石のさいにお謡を披露。/新年号で訪ねた中国の上海で購入した染付の香合。
二段目右から/檀さんの薄茶をいただく連客の方々。/懐石で千鳥の盃をいただく檀さん。/次客の務めた寺本さんは茶歴50年あまり。
三段目右から//炉縁は家元の花押入で12代宗哲の作。釜は松梅地紋浄清造。/お詰めを務めた森田さんは寺本さんの社中。/家元からお借りした宗哲の黒中棗、高取一重口の水指、そして檀さん自作の赤樂茶碗。