■千利休の懐石

料理の革命・懐石の誕生

茶の湯がわび茶という明確なスタイルを持つようになるには、わび茶の祖とされる村田珠光の活躍期より数えても、約100年の時間の経過が必要だった。その間、茶の湯を形作る点前作法、茶道具、茶室、思想のそれぞれが徐々に互いに影響を与えながら、独自の文化を形成していった。当然、その中には料理も含まれる。従って、茶の湯の料理と言えども、今挙げたような懐石の特質を初めから持っていたわけではなく、また、言葉もなかったことは、先に述べた通りである。本膳料理のスタイルを踏襲しながら、16世紀の後半に至って漸く、「数奇ガ`リ」という新しい様式を獲得する。茶の湯の料理が本膳料理の要素を払拭していく過程は、色々な史料が語っている。

織田信長政権の最盛期までは、まだ金銀の箔や金泥をもって、食器を飾り立てた料理が二の膳、三の膳つきで供されていた。ところが、こうした曖昧な茶の湯料理のあり方にはっきりと訣別の意思を示したのが千利休(1522〜91)である。利休は、自ら一汁二菜ないし三菜の料理を実践した。汁一種ということは、膳が一つしか出ないことを意味している。千利休の茶の料理は、当時の一般の本膳料理風とは一線を画し、飯汁のほかに、向付、煮物、焼物という、後の懐石のスタイルをほぼ内包していた。更に注目すべき点は、引菜が二種でていることである。二種は常に出るわけではなかったが、亭主の手間を省き、客が自ら休止する形で、器ごと客から客へ手渡しする「引く」料理そのものがわびの振舞ふるまいだったため、利休は必ず料理の一つは引菜とした。つまり、給仕を用いないわびを通して、茶室の中の主客の平等が示されたといえる。

メッセージという特徴
史料としては利休の時代より100年後の成立となる『南方録』に、いかにも利休らしい懐石についての言葉を伝える記述がある。また、懐石とは、正にわびという美意識が選考して、それを表現しようとするメッセージ性を持って成立した料理だったのである。その意味で、料理が利休の考えるとわび茶の枠を逸脱すると、利休は茶の湯そのものを拒絶した。従って、茶の湯の料理の要素としては、料理の味や姿ばかりでなく、もっと大切なのはわびのメッセージ性だといえる。
懐石が日本料理史の中で画期的な位置を占めるもう一つの特質は、メッセージ性、あるいは趣向という点を料理に加えたことだった。それは季節感だったり祝いの心であったり色々である。例えば季節を象徴する食材が用いられるのは当然だが、そればかりでなく、器の文様にも季節感のあるものを用いたりして、季節を膳の中に招き入れる。このような懐石の特質を、趣向の面白さという点で引き継いでいったのが京料理であったともいえるのである。