■懐石とは

料理の革命・懐石の誕生

室町時代に武家のハレの膳として発展をみた本膳料理は、過剰な形式化の中で料理としての本質を失っていき、その結果、料理の革命が起こる。茶の湯料理・懐石の誕生である。懐石の登場は、日本料理史における革命というだけではなく、今日料理の世界を形づくる一つの柱が成立したという点でも、大きな事件であると言える。

懐石という言葉について考えてみると、「懐石」、「懐石料理」、或いは、「茶懐石」などと言われている。文字を変えて「会席」とも書くことがあるが、それぞれ別の意味がある。先ず、「懐石」は言うまでもなく、茶の湯の料理のことで、茶の湯の世界では「懐石」とは言うが、「懐石料理」とは言わない。従って、茶の湯を離れて料理だけが出される料理屋料理となったとき、懐石風という意味で、「懐石料理」の語が用いられたと考えられている。茶懐石も似た用語で、茶と懐石は同義反復で意味をなさない。現代の懐石料理は宴会料理なので、飯・汁は料理の最後にでる。しかし本来の懐石は飯・汁が最初にでる。というわけで、茶の湯でなく料理をもてなすだけにしても、茶事風にご飯を先に出す場合、特に「茶懐石」という場合がある。「会席」の文字については、実はこちらの方が古い文字で、「懐石」はその当て字である。

「懐石」という言葉が最初に史料に登場するのは『南方録』である。『南方録』は後世の編纂物なので、編纂された元禄年間(1688〜1704)まで懐石の文字も下がると考えなければならない。少なくとも利休の時代(16世紀後半)の信用できる史料には、懐石という文字は現れない。『茶話真向翁』(1803年成立)には、「茶湯の献立を懐石と書くが、その意味を理解しないで会席と書くことがある。それもおかしいと、会膳献立料理などと書く人もいる。やはり会席と書くべきであろう。この字はもと禅語だときいている」(現代語訳)と記されていて、懐石の文字が正しいと主張し、それが禅語からきていること、また「茶湯の献立」という呼び方があったことが分かる。しかし、禅語に懐石という文字はないので、一般に言われていることとしては、禅に温石という言葉があり、僅かな暖をとるための温石を懐にするがごとき質素な料理という意味で懐石という字が作られたとされている。

では、懐石の文字がなかった時代に茶の湯の料理は何と呼ばれていたのか。千利休によって茶の湯が大成された16世紀後半の史料には「会席」(『山上宗二記』)、「献立」(『宗湛日記』)、「仕立て」「振舞」(『天王寺屋会記』)などの文字が使用されている。ここで大切なことは、これらの文字が茶の湯の料理を特定する用語ではなく、今日の言葉で言えば、集会、食事あるいはそのメニューの意味だったことである。つまり、初期の茶会では、茶の湯の料理としての独特のスタイルができておらず、一般の宴会の料理と実態において差が無かったため、言葉として別のカテゴリーを示す用語は必要なかった。ところが千利休が活躍する16世紀末になってくると、他の宴会料理と茶の湯の料理を区別しようという意識が生まれてくる。所謂わび茶の完成は、料理の内容に至るまで、わびという美意識で貫き、新しい料理のスタイルを創造した。

日本の喫茶習慣は400年ごとに節目があった。今から1200年前、ちょうど平安京が建設された頃、中国の茶が日本に渡来したが、やがてほとんど忘れられてしまった。そしてそれから400年後、再び茶が入る。今から800年前、南宋から帰ってきた日本臨済禅の祖、栄西禅師がもたらしたものが、浙江省のあたりで産する緑色の香り高い抹茶の生産と飲用の方法だった。アミノ酸の旨みを含んだ茶の味、生臭いような茶葉の香り、色鮮やかな茶の色、その全てが日本人の好みにあったのだろう。当時、たくさんの人々が日栄貿易を通じて寧波から天台山を巡って杭州の西湖に遊んだことを考えると、茶の再渡来をすべて栄西禅師の功に帰すべきか、異論があるかもしれないが、少なくともその一人が栄西禅師であったと考える分には異論はないと言える。尚、栄西禅師がことに重要な茶の歴史の主人公となったのは、『喫茶養生記』を記したからで、言い換えれば、その偉大な著書があるが故に、栄西禅師は日本茶の祖師となったのである。

そして、始めは僧侶の社会に定着した喫茶の習慣は忽ち武家社会へ広がり、と同時に、薬効効果を持って宣伝された茶は、その目的を離れて、純粋に美味しいという理由で飲む嗜好飲料へと発展を遂げた。その結果、茶をめぐる闘茶などの遊びが盛んになり、この闘茶の流行が人々をつなぎ合わせ、人を集わせる核に成長したのである。つまり茶をもって人が寄り合う会が成立したのである。即ち、茶会である。茶会という言葉が最初に現れたのは十五世紀の初期に成立したとされる「喫茶往来」。こうして、茶の湯という文化の芽が生まれた。

茶の湯は、成立する過程で、連歌に代表される中性の美意識と共通するものを次第に取り入れていった。どちらかといえば中国から舶載された業火で立派な道具に憧れることが多かった茶人たちの目が、見た目には粗末(粗相とも表現する)であっても、心の琴線に触れるような、つまりしみじみと心がリラックスできるような和風の美の世界へと向けられ始めたのである。

これが15世紀の末から16世紀の始めに生まれたわび茶である。わびとは、やつしてみせること。立派な人も、豪華な道具も、金殿玉楼も、そればかりでは何の面白みもない。立派な人がまるで世俗を捨てた隠者のような遊びをするから感動するのである。豪華な中国の器が、日本の飾りつけのない器の間にはさまれているから美が互いを引き立てる。金殿玉楼の片隅には、人々が寛いで胸襟を開くことのできる草庵があってこそ楽しい。貴種が身をやつし、器が、さらに住まいがやつされたとき、やつしの美の総合が生まれる。それがわび茶である。

わび茶を大成したのは境の町衆武野紹鴎とその弟子の千利休である。利休の家は紹鴎ほど豊かではなかったが、茶の湯の工夫においては利休は師を凌いで優れていた。その一つが、紹鴎の考案した茶室を極端に狭くして、一種の閉鎖された空間を作ったことである。例えば、茶室に入るにも立ったまま入れない、高さ60センチほどの小さな穴のような入り口を膝をにじらせてくぐり抜けて入るような仕掛けを持つ二畳敷、たった一坪の茶室を作った。このような外界から切り離された空間の中で、主客は肩を寄せ合うようにして茶の湯に入る。はじめは強い緊張感があるが、次第に食事が進み、酒が酌み交わされ、静かに茶碗をすすりあう頃には、緊張は緩んで主客の間に強い共感、連帯感が生まれるように利休は演出したのである。

主客の一体感を演出するのに、何よりも必要なのは飲食であると言える。同じ器から分け合って食事をする。最後には同じ炉の火で沸かした湯で茶をたてて、あたかも酒の巡盃のように茶碗を一同の間にまわして茶をすすり合う。まさに共同飲食の典型を茶の湯に見ることができる。
茶会は茶を核とした人々の寄合い、つまり、宴会の一つの変型である。だから茶会の中には宴会と同じ構造があって何ら不思議ではない。飲めや歌えの乱痴気騒ぎも、実は中性の茶会にはつきものだった。しかしわび茶の誕生によって、一般の宴会とは一線を画すようになったのである。つまり、酒宴という二次会を省略し、最初の式三献にあたる酒の儀礼を省略したのである。酒に関する限り、いささか茶の湯は禁欲的だ。勿論酒はたっぷりあるが、酔いつぶれるのが会の目的ではない。そこが宴会一般と異なる点であると言える。