■茶の湯

茶の湯

この「お茶」は、生きる道(心を高める実践的な方法)として発展してきた。この「お茶」が茶の湯である。この世の心配や欲望から自らを解放そうと意図的に努力しないかぎり、私達は心の平和を獲得できないという考えに基づき、茶の湯を通して、私たちは日々の雑事を離れ、人間の根源を探求する機会を与えられた。茶の湯はその好意のなかに普遍的なものを内包している。
実践の一つの道としては、茶の湯は人生にとっての包括した模範となっている。それは常に時代を超え、アジアの伝統の中の経験や昔ながらの知恵などから生じた、人々の基本になる価値の役を果たしてきた。茶の湯は宗教の教義を説いているわけではない。茶の湯の強みは人間の最も根源的な行為、即ち、人と共に座って食事をしたり、お茶を飲んだりといったことの型や基本を具体的に凝結させていくということにある。我々が今日、茶の湯という言葉でよぶものを確立した人、千利休は言う。「茶の湯とはただ湯を沸かし、茶を点て、呑むばかりなる本を知るべし」と。

利休居士は、茶の湯の精神を「和敬清寂」という言葉で表した。茶の湯を行う人は、日々の煩わしさとは全くかけ離れた人間の理想世界とも言うべき一つの世界、そのお茶に参加する人々の長い修練の末の共通となった同意事項を、認識を通して、その世界に入っていく。
「和敬清寂」という言葉は中国の禅に端を発しており、もともと日本でできたものではない。それは精神修養の道であり、利休の時代と同じように間違いなく今日でも、あらゆる人間にとって価値あるものである。

和と敬は、人と人との関係における倫理を意味する。一方、清と寂は個人的な意味合いが強い。しかしその四つは互いに緊密に絡み合い、ある一つが他のものを暗示し、四つのうち一つとして欠くわけにはいかない。それ故四つのすべてが個人の内面に於けると同様に、亭主と客との関係、あるいは茶に関わる全てに対しても、具体的な意味を持っている。