「吉兆」が日本を代表する名店へ一気に駆け上るのは戦後のことである。
戦後、最初に店を構えたのは大阪市中央区平野町。現在の湯木美術館にある場所だ。昭和21年に平野町に店を開き、23年嵐山に「嵯峨吉兆」(現在の京都吉兆嵐山本店)を、24年には平野町の店を高麗橋に移した。旗艦店「高麗橋吉兆」の誕生である。嵐山も高麗橋も、湯木と親しかった古美術商の児島嘉助氏の持ち家で、氏の死後に息子さんら譲り受けたものだ。
ここから湯木貞一の絶頂期がはじまる。湯木の料理の評価はますます高まり、政財界の要人や文化人たちが通う店となる。配膳は仲居であったが、女性の接待などは行わない。最高の料理を芸術品のような器に盛り、華美を廃した数奇屋造の座敷で供する。床の間には選び抜かれた花瓶や香炉などに、優れた書や画の掛け軸がさりげなく飾られ、適度な距離を保った潔いサービスでもてなす。茶室で亭主が客人に一服の茶をふるまう、湯木はまさに茶の湯の精神を食事に置き換えたのだ。ここに「吉兆」という、料理を主軸とした総合芸術が完成した。
湯木貞一は生涯をとおして、先取の精神に富んだ料理人であった。いち早く西洋料理の素材を取り入れたり、バカラなど洋の器なども積極的に使っていた。自分のつくりあげた料理に固執せず、時代にあった、つねに新しい料理を模索しつづけ、1997年4月7日、95歳で世を去った。しかし、「吉兆」と湯木貞一の精神は5人の子どもたち、そして孫たち、弟子たちのなかに連綿と受け継がれている。