湯木貞一が目指したのは料理だけではなく、器や設え、もてなす心まで含めた、茶の湯のような総合芸術としての日本料理であった。
1980年に湯木貞一が大阪・新町にたった10席の最初の「吉兆」を開いたとき、すでに器はいいものを揃えていたという。24歳で松平不昧の『茶会記』を読み茶の湯に開眼、20代後半から30代にかけて湯木は次第に茶の湯にのめり込んでいった。湯木が茶の湯をとおして確立していった独自の美的センスを、「利休好み」をもじって「吉兆好み」とも表現される。その吉兆好みがいまも「吉兆」の美意識の底辺に脈々と流れつづけていることは疑う余地のないことである。湯木貞一がその生涯で、料理のため、茶の湯のために集めた多くの器や茶器、掛け軸などのうち、文化財級のものは大阪市中央区平野町の湯木美術館に収められている(戦前に集められたものは1945年3月13日の空襲でほとんどを失ってしまったそうだ)。高麗橋や嵐山、銀座などの「吉兆」にも勝るとも劣らぬ名品が残され、実際に料理が盛られ、もてなしに使われていたりする。
何気なくお造りが盛られている平皿が、400年も前の中国明代末期に焼かれた青花(染付)の鉢や皿であったり、炊き合せを漆黒の樂向附に盛りつけたり、煮物のお椀はもちろん輪島塗の蒔絵、効けば先付けは永楽善五郎、ごはんは北大路魯山人だったとか……。夏には冷たいお料理がバカラの特注で出される(フランス・バカラ社のクリスタルグラスは湯木貞一も大のお気に入りだったようで、「吉兆」のためにデザインされた、金で縁どられた器が数多く使われている)。
食卓の上はさながら美術館のようであるのに、器はどれも、いつも控えめで、時としてそれらが由緒あるものだということだえ忘れてしまう。いや、気づかせないのかもしれない。
器といえば、湯木貞一が考案した「松花堂弁当」のエピソードにもふれておこう。書画に優れ茶の湯をたしなんだ松花堂昭乗が小物入れとして使っていた「田」の字形の小箱に、昭和8年頃、湯木が料理を持って弁当に仕立てたのが、松花堂弁当のはじまり。これは湯木の、偉大な茶人・松花堂昭乗に対するオマージュともいえる。
湯木貞一は、辻静雄に『吉兆料理花伝』の中で、「吉兆」が掲げる「世界之名物 日本料理」のキャッチフレーズの由来を聞かれ、次のように語っている。
「日本料理の気品というものは、世界じゅうどこを探してもないだろうということを感得したんです。数奇屋の座敷で、(中略)壊れやすい器物を大切に扱って、お客を喜ばすもてなしの仕方……」。そして「華やかさばかしではなく、その華やかさを乗り越えた侘び、寂びが、日本料理にはある」と。まさしく日本料理に茶の湯の精神を見出し、実践していたのが湯木貞一だったのである。
写真右上から:
樂家十一代慶入作 黒樂向附
永楽家十二代和全作 永螺形向附
輪島塗 鴬宿梅蒔絵椀
青花鉢(17世紀初:中国)
北大路魯山人作 奈良茶碗