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そして三代目、「京都吉兆・徳岡邦夫」の革命とは

湯木貞一は経営にも新しい試みをした。個人経営が多かった当時の料理界にあって、昭和14年には「吉兆」を法人化。昭和31年の船場店を皮切りに36年には銀座店、40年には大阪ロイヤルホテル(現在のリーガロイヤルホテル)内にテナントとして初出店するなどの店舗展開をした。これは湯木の人柄によるところが多く、株式会社化も店舗展開もいつも力を貸してくれる人がいての結果である。約70年が経ち、現在では日本全国に25店舗の吉兆がある。そのなkには、デパートのテナントや美術館のお食事処なども含まれるが、「吉兆」は「吉兆」。日本料理の最高峰というイメージは微動だにしない。

湯木貞一は10年前に世を去った。そして、彼が一代で築き上げた身代と信頼は5人の子どもたちに託された。高麗橋を拠点とした本吉兆をはじめ、神戸、船場、京都、東京の5つの別法人に分割され、それぞれが「吉兆」ブランドを守りつつ、新たな展開をはじめた。

 
注目の三代目徳岡邦夫の誕生

偉大な父をもった二代目は、父に一歩でも近づきたいと願うあまり、往々にして臆病になり、小さくまとまってしまうこともめずらしくない。足利将軍家しかり、徳川家しかり。「吉兆」がそうであるかどうかはわからないが、バブルの崩壊もあり、世の中から「吉兆」は停滞してしまったと思われた時代がつづいた。

ところがいま、ふたたび「吉兆」にスポットが当てられはじめている。「京都吉兆嵐山本店」料理長、徳岡邦夫の存在に注目が集まっているからだ。2002年の暮れ、TBS系の「情熱大陸」でクローズアップされた徳岡邦夫の姿に度肝を抜かれた。徳岡邦夫は湯木貞一の孫に当たる。母や湯木貞一の弟子であり、娘とともに嵐山店の経営を任された「京都吉兆」の現社長。徳岡邦夫は絵に描いたようなサラブレッドである。テレビでは、そんな徳岡が悩み苦しみつつ、素材を見極め、自分の料理を発見し、料理人として進むべき道を見出していく求道者のような姿を描いていた。私は、これが日本料理の最高峰をきわめた湯木貞一から受け継がれたDNAなんだと、と画面に引き込まれてしまったのを憶えている。

徳岡邦夫は1960年(昭和35年)生まれの46歳だが、名門料亭のボンとして、順風満帆のなかを生きてきたわけてはない。実は徳岡の現在の父、徳岡孝二氏とは血のつながりがない。母は大津市坂本の老舗「鶴喜そば」の嫡男と結婚し邦夫を設けるが、実父は邦夫が2歳の時に他界。湯木貞一は高麗橋に戻り店を手伝っていた娘を、信頼できる愛弟子・徳岡孝二に嫁がせ、ふたりに嵐山店を任せたのだ。そのころの湯木貞一はすでに功なし名をとげた、当代随一の料理人としてだれもが認める存在であった。

邦夫少年は、現在ほど観光地化していなかった嵯峨嵐山の自然のなかでのびのびと育った。中学時代はサッカー三昧。にわか勉強で岡山の名門進学校に進んだが、高一でドロップアウト。嵐山に帰って実家の厨房に入り、15歳から2年間見習いとして働く。人より2年遅れて高校に再入学。高校時代はバンドでドラムに明け暮れた。いつしか音楽は趣味の範疇を超え、卒業後はプロのミュージシャンになる決意をしたが、当然両親は大反対。母には泣かれ、父には殴られ……。そのとき間に入ったのが、湯木貞一であった。邦夫は祖父の忠告を受け、交流のあった禅寺の老師のもとへ相談に出向くが、いきなり頭を剃られ文字通り坊主にされてしまう。寺では暗いうちから起きて座禅と作務の日々。修行生活もふた月が過ぎ、自分の我を通して周囲を悲しませることよりも、周りが望む道に進み父母を喜ばせるほうが、自分も幸せになるのではないかと考えるようになったという。邦夫は改めて料理の道を目指そうと意を固め、寺を出て、祖父のもとへ向かった。このとき邦夫は20歳。「高麗橋吉兆」で料理人人生を再び歩みはじめることになった。

 
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