以来6年間、高麗橋と東京の調理場で腕を磨き、湯木貞一から直に料理人として心得や教養を学んだ。26歳で京都に戻ったが、嵐山の厨房には父もいれば、年長の料理人もいる。血気盛んな邦夫をそうすんなりと受け入れてくれるはずもなかった。邦夫は来る日も来る日も真剣にスタッフと向き合い、話し合うことで、自分を理解してもらうことに務め、やがて諍いも消えていった。
徳岡邦夫が「嵐山吉兆」の料理長に就任し、嵐山本店を任されたのは1995年。父は新しくオープンさせた祇園の「花吉兆」へ移り、本店を湯木貞一直系の邦夫に戻したのである。1995年といえば、バブルが崩壊し、日本中が不況にあえいでいたころ。「嵐山本店」の再建が託されたのだ。また、徳岡邦夫の苦闘がはじまる。
まずホームページを立ち上げ、だれでも気軽にネットで予約できるようにした。厨房では煮方、焼方と固定されていた担当を持ち回りにし、ひと通りなんでもこなせる料理人に育てようとシステムを改変。サービスにも国際感覚をもった新卒女子を採用し、スタッフを大幅に若返らせた。
仕入れの改革も断行。新たな食材を求め自ら全国を歩き、業者を固定せず常に最良のものを取捨選択できるようにした。食材を守るため環境問題の研究やスローフード活動にも積極的に取り組むようになった。